そこは「神話の森」と呼ばれる場所──
前触れもなく、山間の木々が大きく揺れた。

突如として地鳴りが響き渡り、大地がうねるように隆起する。古くからそこに根を下ろしていた木々が軋み、倒れ、驚いた鳥達が一斉に飛び立った。
大地が裂け、その割れ目から巨大な白い物体が天を突くように姿を現す。

それは、高くそびえたつ白い塔──いや、巨大な花のつぼみだった。

大地の揺れが収まって森が静寂を取り戻すと、つぼみがゆっくりとほどけはじめた。その繊細な動きは、植物が連綿と繰り返す自然の営みそのものだった。
白い花弁が少しずつ開き、朝露のような輝きを帯びながら広がっていく。太陽の祝福を受けるかのように。あるいは、天に許しを乞うかのように。

大地に姿を現した、巨大な花。
その花の中央にそびえる雌しべの先端に、一人の少年の姿があった。
その少年──ニーアは、後ろから女性に抱きかかえられている。

彼は、ゆっくりと目を開ける。
誰に抱かれているのかは分かっていた。かつて共に戦った同志──双剣の使い手、カイネ。
彼女の呼ぶ声が道しるべになり、ここへ導かれたのだ。

「……帰ろう」

それは、聞きなれた低くて静かな声だった。

   *

久しぶりに帰った故郷の村は、何も変わっていない。相変わらずの、貧しくも穏やかな田舎村。人々は平穏な営みを懸命に続けていた。

村の中心に流れる小さな川に設えられた古い水車は、今日も変わらずに清らかな水しぶきを上げながら回っている。
石造りの建物が並ぶ商店街で働く人々は、常連客や顔なじみとの世間話で忙しい。
小さな噴水のある広場には、子供達が無邪気に走り回っている。

小高い丘の中腹に建つ、古びた石造りの家。そこがニーアの家だ。

庭に色とりどりの月光草が爛漫と咲いていることが、記憶にある自宅の様子とは少し違っていた。
花びらを揺らす月光草は、きちんと手入れされているのか、花壇の中で今を盛りにとばかりに咲き誇っている。

赤、黄色、青、オレンジ、ピンク、そして白。
花の周りを踊るように飛び交う蝶々。

わたしを見て、と叫ばんばかりに主張するカラフルな月光草に、水を撒いている一人の少女の姿があった。
鼻歌を歌い、花と対話するかのように、いとおしげにじょうろを使って水と、そして愛情を注いでいる。
穏やかな太陽の光が、少女の白くて長い髪と、じょうろから注がれる水を反射し、まぶしくきらめく。
我が子を慈しむ聖母のようだった。
一枚の絵画のような美しさをずっと心の中に留めておきたいと思い、僕は声をかけることをためらった。

視線を感じたのか、少女はじょうろで水をあげながら、ふと顔を上げる。

「おにいちゃん?」

目を丸くして立ち尽くす。手にしていたじょうろの水がなくなっても、そのまま……まるで、忘れていた大切な何かを、今思い出したとでもいうかのような顔で。

弾かれたように少女はじょうろを投げ出し、ニーアに飛びついてきた。

「おにいちゃん!」

駆け出した少女の勢いに驚いた蝶々が、花畑から逃げるように飛び去っていった。
ニーアは、ヨナを受け止める。

「おにいちゃん……! 本当に、おにいちゃんなの?」

ニーアは何も言えずに、妹の温かさを腕いっぱいに感じていた。
記憶にあるヨナの姿より、ずいぶん大人びたようだ。知っているヨナの姿ではないことに、少しだけどぎまぎしてしまう。離れてから、どれほどの月日が経っただろうか。

「おにいちゃん、どうやって帰ってきたの?」
「カイネが呼んでくれたんだ。それに……」

言葉にはできないが、確かな温もりが胸の奥にあった。
思い出そうとしていたモノ。思い出させてくれたヒト。それは、なんだったか……

逃げていった蝶々が花畑に舞い戻り、何事もなかったかのように、花にとまって羽を休めていた。

「お祝いしなくちゃ! それに、お客さんが二人もいるし!」

ニーアがどうやってここに戻ってきたかのは、ヨナにとってそう大きな問題ではないようだった。
ヨナはニーアの腕から身体を離して、彼の後ろに笑顔を向ける。

「馳走になろう。ここまでこいつを連れてくるのに、苦労したんだ」
「わあっ、パーティーですね!? うれしいですー!」

カイネとエミールだ。ニーアをこの世界に導いてくれた仲間。目覚めてから、一緒にここまでやってきた。かつて、共に戦ってきた戦友だった。

「うん、まかせて! すぐ何かつくるから!」

すぐにでも台所に立つつもりだろう。ヨナは、弾むように家の出入り口へと駆け出していく。

「えっ……いや、待って、それは──」

慌てて止めようとしてニーアは声を上げる。
ヨナの料理の腕を思い出したのだ。かつて食べさせられた、アレとか……アレとかの味が脳裏に蘇ってくる。

ヨナはくるっと振り返り、手を腰にあてて苦笑いを返す。

「もう。おにいちゃんの知ってるヨナのままじゃないんだから。この3年、ずっと特訓してたんだよ?」

3年。
ヨナを取り戻すために魔王を倒した後、姿を消していたニーアがこの世界に戻ってくるまでに流れていた時間だった。

「あの、僕もお手伝いしますよ!」

空白だった年月を思い、言葉を返せない僕を追い越して、エミールはヨナと一緒に家の中へと入っていった。
開け放たれたままの扉から聞こえてくる、二人の楽しそうな声。二人はいつのまに仲良くなっていたのだろうか……
ニーアは、あとでこの3年の間にあったことを、ヨナに聞かせてもらおうと思った。

そして、これからのことを話す時間も。
それくらいの時間は、十分あるはずだ。

ぽん、と後ろから肩を叩かれる。
カイネだ。

「帰ってきたな」

ニーアは、黙ってうなずいた。
そしてニーアはカイネと共に、久しぶりに帰ってきた家の中に足を踏み入れる。

エミール、カイネ、大切な仲間達の間で笑っているヨナ。それは夢にまで見た幸せの在り方。

けれどニーアは、これからの日々に待っているものも知っている。苦難、試練、そしてやがてくる世界の終末……

「おかえり、おにいちゃん!」

ヨナが瞳に光をいっぱいに映して、部屋の奥から手を振ってくる。
ニーアはヨナを──その光を見つめながら思う。

苦しくない世界なんてない。
それでも、大切な人達のいる場所で、生きていきたいのだと。

「ただいま、ヨナ」

-END-