1.
-無ノ檻-
水底から湧いてくる微かな泡のように、“僕”の意識はふわりと浮かび上がった。
暗闇の世界。
どこまでも深く、静かな闇の中で、僕は目を覚ました。
僕は横たわっているようだ。腕に力を込め、上半身を起こす。それから、慎重に立ち上がった。
ここは、どこだろう?
でも、それより。
──僕は、誰だ?
記憶が、ない。
名前すら浮かばない。もちろん、ここにいる理由も思い出せない。
衣服さえも身につけていない。僕が何者であるのかを知る手がかりは、何もない。
一歩踏み出してみた。
ひやりとした冷たい土のような感覚が足裏を包み込み、わずかな抵抗を覚える。
しかし僕は足を前に運び続ける。前に。前に。
ゆっくりと、一歩ずつ前に進む。歩きたいわけじゃない。それしか、やれることがなかった。
……どれくらい歩いたのだろうか。
前方にぼんやりとした白い影が見えた。
影は、迷いなく僕のほうへとまっすぐ歩いてくる。
暗闇の中、光もないのに、どうして僕の姿が見えるのだろうか。
僕らは互いに歩み寄る形になっていた。
もしかしたら、鏡なのかもしれない。そう考えれば、色々腑に落ちる。
近づくにつれて、その姿をはっきりと知覚する。
目にかかりそうな、長めの白い髪。
通った鼻筋。切れ長の瞳。薄い唇。
どこか神秘的な雰囲気をまとった、“少年”の姿だ。
「ここにいたんだね。いつ目が覚めたの?」
唐突に、少年は言った。
鏡に映った僕……だと思っていたそれは、僕とは別の存在の“少年”だった。
少年はすっと僕の手を取り、さながら僕らはぎこちない握手のような形となる。
「ええと……君は?」
僕は、おそるおそる相手に尋ねる。
僕の言葉に、少年は苦笑いして肩を落とした。
「やっぱり、忘れちゃってるか」
忘れちゃって、る?
つまり、君と僕とは知り合いだったということ?
新たな疑問が次々に浮かぶ。
僕が次の言葉を発する前に、白い髪の少年はにっこりと笑い、僕の両肩をぽんぽんと叩いた。
「よし。じゃあまず、君の記憶を取り戻しに行こう!」
記憶を探すのを手伝ってくれるというなら、断る理由はない。
こんな暗闇の世界で優しい人に出会えるなんて、僕はある意味ツイているのかもしれない。
「早く記憶を取り戻さないと、君の存在自体が消えてしまうからね」
──存在が、消える?
なぜ。どうして。どうやって。
理解が追いつかない。
僕は口を開いたまま、固まっていたのだろう。
少年は、そんな僕を見ておかしそうに笑い、周りを見回した。
「あっはは……ええと、こんな暗い場所、立ち話をするにはぴったりとは言えないよね」
少年は後ろを振り返り、虚空に向かって右手を掲げ、指を鳴らした。
パチン!
光だ。
急に明るくなった世界に目がくらみ、僕は両腕で顔を覆う。
暗闇だった空間が、少年の指の音を合図として、急に光で満たされた。
「大丈夫。ほら、ゆっくり目を開けてみて」
僕は少年の声に従って、おそるおそる目を開けていく。
太陽の光……
顔を覆っていた腕をゆっくりと下ろす。
少しずつ明るさに慣れていった僕の目は、今までとはまったく異なる光景をとらえていた。
そこは、花の咲き誇る広大な庭園。
レンガを敷き詰めた遊歩道の上に、僕達は立っていた。
僕は白い服を着ていた。でも、それがどんな形をしているのか自分には分からなかった。
少年を見ると、同じような服を着ていた。半透明の羽衣を何枚も重ねたような、目の錯覚のような服だった。
僕達の両側には、色とりどりの花達が競うように咲き誇っている花壇があった。
薔薇、百合、ガーベラ、ダリア、デイジー、ハルジオン、アネモネ、マーガレット、ジャッカスクローバー……少年はひとつずつ花を指さして、その名前を教えてくれた。
手入れされて、高さの揃えられた植栽。
涼しげな水音を響かせる噴水。
雲ひとつない青空と、頬をなでてそよいでいく風。
さっきまでの何もない世界が、嘘のようだった。
「君は……魔法を使えるの?」
つい口をついて出てしまった僕の間抜けな問いに、少年は吹き出す。
「そうだね。元はといえば僕の力ではなくて、“契約”によって手に入れた魔法だけれど……」
その不思議な返事に、疑問は増えるばかりだった。
「ちょっと歩こうか」
少年が、遊歩道を歩き出したので、僕は彼の隣を歩くことにする。
庭園には、目を見張った。
花の種類ごとに等間隔に配置された花壇。その中で咲く花は、どれひとつとっても形がいびつだったり、しおれていることがない。どこを見ても完璧で、絵画として愛でられるような景色だ。
なんだか懐かしいような、それでいて、こんな世界はまったく知らないような。
記憶を失う前の僕は、どんな場所にいたのだろう……
「見える? あそこにあるもの」
少年がふいに口を開き、背の高い花々が咲く花壇を指さす。
少年の指が指し示す場所によくよく目を凝らすと、土の中に、庭園には似つかわしくない金属製の機械が埋もれていることに気がついた。
大人がひと抱えするほどの大きさの円盤だ。皿のような円盤と、それを支えるための支柱のあるそれは……
「アンテナ、って僕は呼んでる」
少年は言った。
アンテナ、と呼ばれたその機械は、錆びついていて、植物のツルが絡まっている。
僕は、これと同じようなものが、あちこちにいくつも隠されていることに気がついた。花の根と一体化しているものもあり、ほとんど土に埋まっているようなものもある。
花園の中で擬態して生きる、無機質な甲虫。
僕はそんな気味の悪い印象を受けた。
「どれでもいい。好きなものに触れてみて」
少年は、僕の目をまっすぐに見つめた。
「そうすれば、君の記憶を取り戻すことができるから」
どういうことだろう……
けれど、これ以上、質問を重ねても意味がないだろう。この世界で目を覚ましてから、理解できたことなんてひとつもなかったのだから。
ツルに覆われたアンテナは、簡単に触れることはむつかしそうだった。
花壇の前に、僕はしゃがみこむ。
むっとする土のにおい。
固い茎を、そっと手でかきわけていく。
土に半分埋まった錆びだらけのアンテナがあらわになる。
僕は、半信半疑で手を伸ばす。
これに触れたら記憶を取り戻すことができる、だって?
「うわっ……!」
指先が金属に触れた瞬間、アンテナから何か光のようなものが溢れ出した。
光──違う。これは、流れるような文字の塊だ。
文字は僕の身体と思考を分断するかのように、僕の中へと入り込み……
「いってらっしゃい。探しておいで、君の記憶の手がかりを……」
僕の意識は……
アンテナから溢れ出した、文字の世界へ──
暗闇の世界。
どこまでも深く、静かな闇の中で、僕は目を覚ました。
僕は横たわっているようだ。腕に力を込め、上半身を起こす。それから、慎重に立ち上がった。
ここは、どこだろう?
でも、それより。
──僕は、誰だ?
記憶が、ない。
名前すら浮かばない。もちろん、ここにいる理由も思い出せない。
衣服さえも身につけていない。僕が何者であるのかを知る手がかりは、何もない。
一歩踏み出してみた。
ひやりとした冷たい土のような感覚が足裏を包み込み、わずかな抵抗を覚える。
しかし僕は足を前に運び続ける。前に。前に。
ゆっくりと、一歩ずつ前に進む。歩きたいわけじゃない。それしか、やれることがなかった。
……どれくらい歩いたのだろうか。
前方にぼんやりとした白い影が見えた。
影は、迷いなく僕のほうへとまっすぐ歩いてくる。
暗闇の中、光もないのに、どうして僕の姿が見えるのだろうか。
僕らは互いに歩み寄る形になっていた。
もしかしたら、鏡なのかもしれない。そう考えれば、色々腑に落ちる。
近づくにつれて、その姿をはっきりと知覚する。
目にかかりそうな、長めの白い髪。
通った鼻筋。切れ長の瞳。薄い唇。
どこか神秘的な雰囲気をまとった、“少年”の姿だ。
「ここにいたんだね。いつ目が覚めたの?」
唐突に、少年は言った。
鏡に映った僕……だと思っていたそれは、僕とは別の存在の“少年”だった。
少年はすっと僕の手を取り、さながら僕らはぎこちない握手のような形となる。
「ええと……君は?」
僕は、おそるおそる相手に尋ねる。
僕の言葉に、少年は苦笑いして肩を落とした。
「やっぱり、忘れちゃってるか」
忘れちゃって、る?
つまり、君と僕とは知り合いだったということ?
新たな疑問が次々に浮かぶ。
僕が次の言葉を発する前に、白い髪の少年はにっこりと笑い、僕の両肩をぽんぽんと叩いた。
「よし。じゃあまず、君の記憶を取り戻しに行こう!」
記憶を探すのを手伝ってくれるというなら、断る理由はない。
こんな暗闇の世界で優しい人に出会えるなんて、僕はある意味ツイているのかもしれない。
「早く記憶を取り戻さないと、君の存在自体が消えてしまうからね」
──存在が、消える?
なぜ。どうして。どうやって。
理解が追いつかない。
僕は口を開いたまま、固まっていたのだろう。
少年は、そんな僕を見ておかしそうに笑い、周りを見回した。
「あっはは……ええと、こんな暗い場所、立ち話をするにはぴったりとは言えないよね」
少年は後ろを振り返り、虚空に向かって右手を掲げ、指を鳴らした。
パチン!
光だ。
急に明るくなった世界に目がくらみ、僕は両腕で顔を覆う。
暗闇だった空間が、少年の指の音を合図として、急に光で満たされた。
「大丈夫。ほら、ゆっくり目を開けてみて」
僕は少年の声に従って、おそるおそる目を開けていく。
太陽の光……
顔を覆っていた腕をゆっくりと下ろす。
少しずつ明るさに慣れていった僕の目は、今までとはまったく異なる光景をとらえていた。
そこは、花の咲き誇る広大な庭園。
レンガを敷き詰めた遊歩道の上に、僕達は立っていた。
僕は白い服を着ていた。でも、それがどんな形をしているのか自分には分からなかった。
少年を見ると、同じような服を着ていた。半透明の羽衣を何枚も重ねたような、目の錯覚のような服だった。
僕達の両側には、色とりどりの花達が競うように咲き誇っている花壇があった。
薔薇、百合、ガーベラ、ダリア、デイジー、ハルジオン、アネモネ、マーガレット、ジャッカスクローバー……少年はひとつずつ花を指さして、その名前を教えてくれた。
手入れされて、高さの揃えられた植栽。
涼しげな水音を響かせる噴水。
雲ひとつない青空と、頬をなでてそよいでいく風。
さっきまでの何もない世界が、嘘のようだった。
「君は……魔法を使えるの?」
つい口をついて出てしまった僕の間抜けな問いに、少年は吹き出す。
「そうだね。元はといえば僕の力ではなくて、“契約”によって手に入れた魔法だけれど……」
その不思議な返事に、疑問は増えるばかりだった。
「ちょっと歩こうか」
少年が、遊歩道を歩き出したので、僕は彼の隣を歩くことにする。
庭園には、目を見張った。
花の種類ごとに等間隔に配置された花壇。その中で咲く花は、どれひとつとっても形がいびつだったり、しおれていることがない。どこを見ても完璧で、絵画として愛でられるような景色だ。
なんだか懐かしいような、それでいて、こんな世界はまったく知らないような。
記憶を失う前の僕は、どんな場所にいたのだろう……
「見える? あそこにあるもの」
少年がふいに口を開き、背の高い花々が咲く花壇を指さす。
少年の指が指し示す場所によくよく目を凝らすと、土の中に、庭園には似つかわしくない金属製の機械が埋もれていることに気がついた。
大人がひと抱えするほどの大きさの円盤だ。皿のような円盤と、それを支えるための支柱のあるそれは……
「アンテナ、って僕は呼んでる」
少年は言った。
アンテナ、と呼ばれたその機械は、錆びついていて、植物のツルが絡まっている。
僕は、これと同じようなものが、あちこちにいくつも隠されていることに気がついた。花の根と一体化しているものもあり、ほとんど土に埋まっているようなものもある。
花園の中で擬態して生きる、無機質な甲虫。
僕はそんな気味の悪い印象を受けた。
「どれでもいい。好きなものに触れてみて」
少年は、僕の目をまっすぐに見つめた。
「そうすれば、君の記憶を取り戻すことができるから」
どういうことだろう……
けれど、これ以上、質問を重ねても意味がないだろう。この世界で目を覚ましてから、理解できたことなんてひとつもなかったのだから。
ツルに覆われたアンテナは、簡単に触れることはむつかしそうだった。
花壇の前に、僕はしゃがみこむ。
むっとする土のにおい。
固い茎を、そっと手でかきわけていく。
土に半分埋まった錆びだらけのアンテナがあらわになる。
僕は、半信半疑で手を伸ばす。
これに触れたら記憶を取り戻すことができる、だって?
「うわっ……!」
指先が金属に触れた瞬間、アンテナから何か光のようなものが溢れ出した。
光──違う。これは、流れるような文字の塊だ。
文字は僕の身体と思考を分断するかのように、僕の中へと入り込み……
「いってらっしゃい。探しておいで、君の記憶の手がかりを……」
僕の意識は……
アンテナから溢れ出した、文字の世界へ──