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24.10.20
【最新話】結合男子 -Fragments from Dusk-:断章-十一- 清硫十六夜の濁流(7)
著者:麻日珱
前回「断章-十一- 清硫十六夜の濁流(6)」はこちら
「──一本いただいても?」
二月の寒空の下、虚空にぷかりと煙を吐き出した十六夜は、チラリと声の方を見た。空木がいつもの腹を読めない静かな顔で立っている。事務室で見ることが多いからか、青空の下に空木がいるのはどうにもちぐはぐな気がした。
「なぁに、珍しい」
喫煙所にいることもそうだし、煙草をせびってくることもそうだ。それなりに長い付き合いだが、初めてかもしれない。
「空木って煙草吸うっけ? 陸稀のヤツ、嫌がらない?」
「ええ、吸いませんね。嗜好に合わないので」
陸稀も嫌がりますし、と言いながら、十六夜から受け取った煙草とマッチを扱う手は危なげない。噎せることなく吹かしてみせたところを見ると、喫煙自体は初めてではないのだろう。
「サマになってんねぇ」
「それはどうも」
ふぅ、と紫煙を吐き出して、空木はわずかばかり不味そうに眉をひそめる。十六夜は滅多に見られない表情に、クッと口角を上げた。
「で? 何か言いたいことあるわけ?」
「聞きたいことならば」
「それって違うの?」
「私が話すか、あなたが話すか。それは大きな違いでは?」
「なぁに聞かれんだろ」
怖い怖い、と肩をすくめる十六夜の隣で、空木は指先で煙草を持て余しながら軽く目を伏せた。
「宇緑君のことです。なぜ、本人に断りもなく、賦活処置を行ったのですか?」
やはりそのことか、と思いながら十六夜はぷかりと煙を吐き出した。
半年前の新宿での戦いで、十六夜は四季だけを保護して連れて帰ってきた。
聞けば、藍参が受けた因子検査を、四季は受けていないという。そのため、改めて適性検査を受けさせたところ、四季にはベリリウムの因子があると発覚した。もしも孤児院で検査を受けていれば、藍参と同じく青髯に買われていたことだろう。
本人にとって、何が幸いだったかは分からない。保護した直後の様子を考えれば、藍参と共に不完全な賦活処置で使い捨てられた方が、あるいは幸福だったのかもしれない。
だが、四季は助かったし、志献官の適性があると分かった。もはや、志献官になるという運命からは逃れられない。
この世界を恨んでいても、憎んでいたとしても──自らの命に何ら意味を見いだせなくなっていたとしても。
十六夜は感傷を振り払い、こちらを窺う空木ににんまりと笑って見せた。
「なぜって。まあ第一は混位に置いておいてもしょうがないってことかな。お前さんも知ってるだろ?」
「確かに、混の志献官とは度々衝突していますね。主に、あちらから絡まれて、諍いに発展することが多いようです。理由の多くは、清硫純壱位から直々に訓練を受けているから、というものですが」
「いやぁ、人気者はつらいねぇ」
仁武や玖苑という成功例が混の志献官には眩しく映るのだろう。あのふたりに関しては、十六夜の指導がすごいというよりも、勝手に成長していった感が拭えないのだが、周りからはそうは見えないらしい。
「宇緑君もまた煽るのが困りものですがね」
「いの一番に手が出なくなっただけマシじゃない?」
以前は連れてきたばかりで気が立っていたせいもあるのか、口より先に手が出た。しかも、急所を狙って。それに比べれば、煽るだけになったのだから随分マシになったものだ。
空木は呆れたような視線をくれると、小さく溜め息をついた。
「笹鬼司令に相談されました。あなたの推薦だから純位に上げることを承認したが、本当に問題なかったのだろうかと」
「なんて答えたのさ?」
「清硫純壱位がそう判断したのならば問題ない、と。まさか、宇緑君本人に何の説明も行わず、だまし討ちのように"例の水"を飲ませたとは思わなかったので」
十六夜は小さく頬を掻いた。だまし討ちと言えばだまし討ちだが、十六夜にも言い分はある。
「いやぁ、俺も素直に飲むとは思わなくてねぇ。出来心っっての? 元々、昇位の話いつしようかなーって思ってたんだよ。そんなときに、よく眠れてないって聞いてさ。たまたまあの"水"持ってたから、よく眠れるようになるって渡してみたら、あっさり飲んじまったの。ありゃ、多分頭まともに働いてなかったな」
正常な判断が出来ないときに渡された物を無防備に飲んでしまうほど十六夜に心を開いていると見ればいいのか、何が入っていようとどうでもいいと自棄になっていたと思うべきかは微妙なところだ。
「詐欺師のような真似を......たまたま持ってるわけないでしょう。あの"水"は防衛本部の最重要機密です。軽々に持ち歩かないでください」
「はぁい」
気の抜けた返事に非難めいた視線を向けながら、空木は煙草の灰を灰皿に落とした。
「不眠の理由は?」
「──新宿に残してきた子の誕生日が近かったからだってさ」
藍参をあちこち捜し回っている間は日付も忘れていたが、防衛本部で衣食住に困らなくなった今、誕生日が近づいてくるのを強く意識したらしい。
なかなか自分のことを語ろうとしない四季が珍しくぽつりぽつりと語り、十六夜はただその言葉を聞いていた。四季はすぐにばつが悪くなったのか、こんな水なんて効くわけないと不満も露わに立ち去り、その話は終わってしまった。
「そうですか」
目を伏せる空木を横目に、十六夜はさり気なく懐に触れた。軽くて固いその塊を掌に感じる。
十六夜は、四季だけを保護した。藍参はもう打つ手がなかったからだ。
懐にあるのは、藍参が十六夜に託した藍参の形見だ。結局、四季には渡せないままずるずると時が過ぎて、もう半年になる。
「......宇緑君を純位にした経緯は分かりました。もう一点、塩水流君のことです。ここのところ、志献官殺しの噂が流れているのは把握していますね?」
「ああ......まあ? 一応?」
噂、ではない。事実、一那は志献官を手に掛けたことがある。新宿戦後、重傷だった碧壱に頼まれて、その命を絶ったのも一那だ。碧壱が新宿から生還した際にデッドマターを埋め込まれていたことは、碧壱の死後に花槻司令から作戦部内に共有されている。
通常、人間はデッドマターには耐えられない。しかし、賦活処置を受けた志献官ならば話は別だ。碧壱の魂とデッドマターが共鳴し、新たな脅威となる可能性は非常に高かった。早急に対処しなければ、碧壱は敵になっていただろう。
だから碧壱は一那の手を借り、自ら命を絶ったのだ。一那は道具として機能した。十六夜はそう認識している。
空木も今更一那が碧壱に手を下したことに苦言を呈するつもりだろうか、と十六夜は内心身構えた。
「警戒しなくて結構です。裏の任務に関しては多少なりと把握していますし、あなたや塩水流君を責めるつもりはありません。ただ、四月には源君の弟、源朔君が防衛本部に入隊します」
「あー......そうだな」
例え、碧壱の選択が結倭ノ国のためであったとしても、兄を失った弟としての感情はまた別の話だ。
「志献官がデッドマターになり得るというのは、機密事項です。家族であろうと例外ではない。そうである以上、塩水流君が源君を手にかけたという情報は、いらぬ諍いの種になるでしょう。笹鬼司令からは新宿戦と源碧壱に関することは機密扱いとし、口外無用との箝口令が出ています」
「そりゃ、お気遣いどうも。一那にも気をつけるよう言っとくよ」
とはいえ、すっかり地下室の住人になってしまった一那だ。碧壱の弟が来たところで接点はないだろう。
(あれから、本当に出て来なくなっちまったしなぁ......)
十六夜が四季の訓練に集中していたことももちろんあるのだが、裏の任務で呼び出す以外ではめっきり外に出て来なくなってしまった。より強く、自分は周りを傷つけるだけだと自罰的になっている。
逆に四季は一所にいるのが馴染まないのか、気がつけば防衛本部の外に出て町をふらついている。十六夜が探しに出たのは一度や二度の話ではない。
あちらを構えばこちらが留守になる。そのくせどちらも放っておけという態度なのだから、全く思春期の子供というのは面倒なものである。
「──なあ、空木? 一那と四季を対面させるってのどう思う」
「好きなようになさればよいのでは? あのふたりに関して、あなたほど詳しい人はいないでしょう」
「そんなことはねぇけどさ。殺し合いになると思うか?」
尋ねた十六夜に、空木は呆れた目を向けた。持っている煙草は、半分以上が燃え尽きている。
「本当に殺し合いになると思っていたら、対面させるという発想自体ないでしょう。それとも、そんなに気が合わなそうなんですか?」
「どうだろ? どっちも口数少ないから、逆に同じ部屋に置いといてもひと言も喋らない可能性もあるかもしんないんだけど。そこはほら、俺もう十代の気持ちとか分かんないからさぁ」
「そもそも会わせてどうするんです。ふたりを引き連れて裏の仕事に向かうんですか?」
問われて十六夜は虚を突かれた。四季を裏の仕事に関わらせようなど、考えたこともなかったからだ。
「いや、そういうんじゃない。一那だけで間に合ってるし、それに」
それに──何だ。言葉が続かなかった。
今更、子供に汚れ仕事はやらせられないなどという言い訳は通じない。一那の破壊衝動をいいように利用して泥沼に引きずり込んだのは十六夜だ。同じように連れて帰ってきた子供を鍛え上げたのだから、同様に思われても仕方がない。
それでも──。
『しきを、たすけて......』
蘇った声に、十六夜はガリガリと頭を掻いて内心で小さく舌打ちをした。十六夜が裏の仕事に就いて十五年だ。良心などとうに殺したというのに、親友の無事を願った子供の顔が浮かんできては十六夜を苛んでいる。
「とにかく、四季は裏の任務に連れてくつもりはないよ。ただ──」
十六夜は言葉を飲み込んで首を振った。これもやはり感傷だ。贖罪にも似ているかもしれない。一那にも、四季にも、許しを請う資格など十六夜にありはしないのだ。
「ただ?」
「何でもない。まあ、しばらくは保留ってことにしとくわ」
冗談めかして肩をすくめれば、空木は怪訝そうにしつつも手元の煙草を見下ろした。
「そちらのことはお任せします」
禿(ち)びた煙草を灰皿で揉み消して、空木は十六夜を見やる。結局、最初の一口を吸っただけで、あとは口に近づけもしなかった。その一本で会話を切り上げるまでの時間を計っていたのだろう。
「喫煙もほどほどに」
「......了解」
今もまさに煙草を取り出そうとしていた十六夜は、苦笑とともにしまい込む。
「しーちーりー! どこー!?」
不意に聞こえた声に十六夜は視線を彷徨わせた。
「呼んでるぜ?」
「ええ。もう行きます。そういえば、宇緑君は武器に銃を、しかも二丁も申請していましたので、どうぞお気を付けて」
「空木おまえ......お気を付けてじゃないでしょうが。え、俺撃たれちゃう?」
「自業自得では?」
空木は食えない笑みをうっすらと浮かべる。近づいてくる軽やかな足音を聞いて、その笑みにじわりと温度が滲んだ。
「あ、漆理みっけ! いざさんも、やっほ」
ひょこりと喫煙所に顔を出したのは、有生陸稀だ。
「やっほ~、陸稀。お前さんも吸ってみる?」
煙草の箱を差し出せば、陸稀は眉間にぎゅっとしわを寄せ、空木の隣に立った。
「いらない。漆理、吸った? いざさん、うちの漆理に変なこと教えないでよ」
「変なことって」
たかが煙草だろうと、十六夜は苦笑した。二十歳の青年が、三十路目前の男に対して何を言っているんだか。当の空木といえば、吸ったとも吸ってないとも言わないまま、控えるようにひっそりとそこにいる。
「漆理、いざさんとの話し終わった? いざさん、漆理連れてっていい?」
「どうぞどうぞ。なんかあんの?」
「へへ。秘密~」
にかっと歯を見せて笑う。翳りのないその笑顔につられていつしか十六夜も笑っていた。
「行こう、漆理」
「ええ。それでは、清硫純壱位」
階級付きで呼ぶときは、仕事の話だ。十六夜は返事の代わりに小さく片眉を持ち上げた。
「本人の同意なく宇緑君を純位に上げたことについての始末書の提出、お願いしますね」
「えー!? なに、まさかおまえ、それ言うためにこんなとこまで駄弁りに来たわけ?」
これまでの会話は長い長い前振りだったのか。空木は陸稀に向けるのとは違う事務的な笑みを十六夜に向けてきた。
「忘れても構いませんが、そのときは新人の教育をお願いします」
「新人って、碧壱の弟? むっちゃん頼んだ!」
「いいの? 教えるの下手かもだけど、頑張る! 碧壱の弟ともうひとり、候補生で来る予定だよね? すっげー楽しみ」
「陸稀......」
困り顔の空木を見て十六夜は呵々と笑う。
「そんじゃ任せたわ。陸稀、用事あるんだろ?」
「そうだった! いざさん、じゃあね!」
「失礼します」
陸稀は明るい笑顔を振りまいて空木の手を引く。それに逆らうことなくついていく空木の背中を、十六夜は目で追いかけた。
「ほんと。仲のよろしいことで」
陸稀が防衛本部に来る前は、冷静沈着が服を着ているような冷血人間だと思っていたのだが、赤ん坊の頃から面倒を見ているという陸稀相手となると、空木でさえ仕事の顔を貫き通せないらしい。
ふたりの姿が完全に建物の陰に隠れるまで見送って、十六夜は目を伏せた。
空木とは、彼が前任の窒素の志献官から教えを受けているときから数えれば、もう十年以上の付き合いになる。年若い志献官たちが次々と命を落とす中で、特に純の志献官として十年以上生き残っているのはもはや奇跡だ。
奇跡──だった。
しん、と静まりかえった鎌倉の地で、十六夜はダイヤモンドでできた巨大な殻を見上げた。侵食領域は大きく後退し、色の空が広がっている。苛烈を極めた鎌倉防衛戦が嘘のように──あるいは、これこそ現実だと突きつけるように、透明な殻は夕陽を浴びて美しく煌めいていた。
「よくやるよなぁ」
あっけなく命を燃やして、で逝ってしまうなんて。
「──イザヨイ」
その声は、小さいながらもよく響いた。
「何をしている?」
子供が純粋に不思議がるような、感情の伴わない疑問に十六夜は苦笑を浮かべた。一那に碧壱を殺したときほど動揺がないのは、自ら手を下したのではないという理由の他に、ふたりに対する思い入れがないからだろう。
「お前さん、待ってたのか? 他のヤツらと先に帰ってよかったのに」
鎌倉防衛戦を生き抜いた仁武は玖苑が連れて帰った。他の混の志献官たちも笹鬼の指揮の下、ほとんどが撤収している。ここにいたところで、倒すべきデッドマターはもういない。
最近すくすくと身長を伸ばしている少年は、随分近くなった目線から十六夜を見上げた。
「追わないのか」
一那は殻を指さした。十六夜の目の下がヒクリと小さく痙攣した。
「ジンたちは仕留め損なった。ヤツを壊さないのか。今なら弱っている。ヤツを逃がしたら、ふたりは無駄死にだ」
「一那」
咎める十六夜に一那はゆっくりと瞬きをした。顔の半分はマスクで覆われている。唯一表情を読み取れる目には、ただただ不思議そうな光があった。破壊衝動さえなければ、穏やかな性分なのだ。
「──今は、行かない。下手に刺激をして状況が悪化したら、鎌倉は今度こそ壊滅する。そうなったら、それこそ無駄死にだ」
「そうか」
鎌倉の元素結界は崩壊し、混の志献官たちにも多くの犠牲が出ている。迅速な元素結界の修復が求められる中で危険は冒せない。
十六夜は、黙ってじっとしている一那を見下ろした。十六夜の言葉を待つその目に、遠い日の光景が浮かぶ。
屍が連なる故郷の村を、這って進んだ、憐れな子供。
いずれ、その力が重大な事故を引き起こすと分かっていて放置した。たとえ何が起ころうとも、子供を神と祭り上げながら非道な境遇を強いる里の人間への報いだと。
何もかもを失った憐れな子供を本物のバケモノにしたのは、十六夜だった。
結倭ノ国のために──そんなお題目を振りかざして。
十六夜はくしゃくしゃと一那の頭をかき回した。
「っ、ヤメロ」
抵抗を見せる一那にカラリと笑い、十六夜は少年の細い肩を抱いて踵を返す。
「帰ろ帰ろ。腹減ってない? 牛丼奢ったげるからさ」
「オレに食事は必要ない。離せ」
一那は身をよじり、あっさりと十六夜の手を振りほどいて逃げてしまった。
「えー? 可愛くないの~」
「......」
不審者を見るような目で十六夜を見る一那は、じりじりと距離を取っていく。十六夜はそれに苦笑しながら、巨大な殻を振り返った。
(お疲れさん。他のヤツらによろしく言っといてくれ)
きっと、そこに行く日は遠くないだろうから。
──などと、思っていたのだけれど。
気がつけば、十六夜が志献官になって二十年。作戦部には若い息吹が吹き込まれ、十人の内半分が十代、しかも内ふたりは十五歳にもならないという、とんでもない事態になってしまった。それだけ現状が切迫しているという証だが、いくら何でも見境がなさ過ぎる。もちろん、一那を連れてきた十六夜が言えることではないのだが。
半分が十代なせいか、彼らが集まっているのを見ていると学生の集団を見ているような気持ちになる。純位とは名ばかりの、未熟者の集まりだという空気は拭えない。訓練を重ね、何とか形にはなってきてはいるが、どうにも微妙に食い違うヤツらしかいない。
朔と三宙は元々喧嘩ばかりしていたが、横浜の壊滅を境に喧嘩が殺伐としてきた。
七瀬は栄都のことしか見ていないし、栄都は自分を省みない。
六花は絵を描くことばかりに没頭していて、玖苑は相変わらず完璧に磨きを掛けて我が道を行き、仁武は貧乏くじを引き続けて今や司令代理だ。
四季は怒りの炎を腹の内にくすぶらせながら、本心を隠すことばかりが上手くなった──十六夜に対してはあまり隠さないが。
一那は暗い地下牢で没頭し、心の底で人とのつながりを希求しながら、破壊衝動を持て余しつつも、不器用に生きている。
そうして、十六夜と言えば。
カラコロと下駄の音を鳴らしながら、夕方の駅前通りをそぞろ歩く。揚陸型デッドマター『アルビレオ』からの燈京防衛が成功し、厳戒態勢が解かれた燈京の街は、すっかりいつも通りになっている。良くも悪くも、人々はデッドマターに慣れてしまっているのだ。
「──触媒の志献官、ねぇ」
十六夜はサリ、と無精髭をさすった。
朔と栄都が防衛任務に当たった燈京湾の砂浜で、ふたりはずぶ濡れの志献官を拾った。本人に記憶もなければ、防衛本部の記録にもない志献官だ。怪しいことこの上ないが、その志献官は朔と栄都を結合術で繋ぎ、見事にアルビレオを光壊させたという。
先代の触媒の志献官を失ってから十年。再び触媒の志献官──媒人という言葉を聞くことになろうとは、さすがの十六夜も思っていなかった。
「人生、何があるか分からんね」
何はともあれ、予想外の強敵に誰ひとり命を失わなかったことは僥倖(ぎょうこう)だ。
どんな人物なのだろうと思ったが、件(くだん)の媒人は、今日一日はあれやこれやと手続きやら身体検査やらと忙しくしていたらしい。対面は叶わなかったが、いずれイヤでも顔を合わせることになるだろう。
そんなことを思いながら、腹ごしらえだと牛丼屋ののれんをくぐる。チリン、とベルの音が響いた。
「牛丼大盛り、卵と味噌汁、おしんこ......」
いつも通り入って早々注文を口にすれば、入り口に佇んでいた人影がくるりと振り向く。モルを肩に載せた志献官だ。なぜか肩のモルと共に途方に暮れた顔をしていた。
(ああ、これがそうか)
仁武の話では、媒人には補佐官としてモル公というモルを付けたというから、この志献官が媒人なのだろう。
「──こちらさんにも 俺と同じものを」
「あいよー」
「ご馳走してくれるのかモル!」
「ここ、美味いもんな。袖すり合うのも多生の縁ってヤツだ」
モルに牛丼は平気だったっけか、と漠然と思いつつカウンター席に座る。
「おばちゃん! モル公はサラダ大盛りでよろしくモル」
ああ、サラダね、と納得しながら、十六夜はウキウキした様子で牛丼定食が出てくるのを待っているひとりと一匹に片笑んでみせる。
「そんなに喜んでくれるなら安いもんだ。さあ、じゃんじゃん食え」
記憶を失っているという話だったが、デッドマターと対峙して一日も経たないうちにひとりで──モル公がいるとはいえども──外食できるのだから、存外図太いようだ。
(まあ、そのくらいじゃなきゃこの先やっていけんだろうしな)
記憶もなく知らない場所にいるのは不安だろう。さらには媒人なんていう重荷を背負わされようものならば、耐えられなくても不思議ではない。
ただ、こちらはかなり切羽詰まっている状況だ。そんな中でピーピー泣かれても困るし、まして逃げ出そうというのなら、十六夜の出番もあるかもしれない。
(そうならなきゃいいけどねぇ)
十六夜は内心独り言ちながら、出てきた牛丼を前に割り箸をパキンと割った。
志献官になって二十年。たったひとりの登場に純粋な夢と希望を抱けるほど若くもない。終極の日も迫っていると、先日行われた純壱位の会議で仁武からの絶望混じりの情報共有があったばかりだ。
(あと五十日──今日が終わりゃ、四十九日か)
世界の滅亡を前にして、それが長いのか短いのか、十六夜には分からない。
(でもまあ、終わりが見えてるってのはいいことだ)
もう何人も、終わりのない戦いに心折れて潰れていくのを見てきた。
だが、泣いても笑っても五十日後にはこの戦いに決着がつくのだから、朔や栄都を始め、若者たちはただひたすらに突っ走るだけだろう。
「おっさん、ありがとモル」
媒人が必ずお礼をすると言うモル公と、その隣でうんうんと頷いている媒人に、いいよ別に、と十六夜は返した。
「誰か困ったヤツを見かけたら、そいつを助けてくれ」
仁武からは、媒人が防衛本部の一員として戦うかどうかの返事はまだないと聞いている。
ぱっと見た限り、媒人は戦闘訓練を受けているようには見えない。素人を作戦の要として前線に投入するなど正気の沙汰ではないが、それでも、触媒の志献官であるならば、使い方次第で十分な戦力となるのは間違いないだろう。
願わくは、媒人が底抜けのお人好しであらんことを。
「──なんてな」
「プイ? おっさん、何か言ったモル?」
「いいや? 何でも。ほら、食え食え」
よほど腹が減っていたのか、モリモリ食べる媒人を横目に忍び笑う。
どうか、どうか──自分は奈落の底で野垂れ死んだって構わないから──この果てのない夜が終わり、希望に満ちた朝が訪れますように......。
(終わり)
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