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24.07.28

結合男子 -Fragments from Dusk-:断章-八- 凍硝七瀬の氷消(1)

著者:麻日珱

 冬空に星が瞬いていた。

 心臓の奥底までも凍ってしまいそうな寒い夜。膝を抱えて震えるだけの小さな子供。

 空を仰ぐ凍てついた瞳は虚ろに暗く、命の灯火は容易く吹き消されそうなほどに小さく揺れる。

 子供には何もない。たったひとつ、握り締めた小石の他には。

 かつてあったはずの温もりは、何もかもが解けて、崩れて、消えてしまった。

「いち、に、さん、し──」

 色のない震える唇から、かすれたか細い声が漏れる。白く滲む吐息は魂のように儚く消えて、虚しく散って。

 子供は星を数えていた。

 朝など二度と来なければいいと願いながら、奇跡など起きないと諦めながら。

 思い出せないほど遠く、遠く、記憶の彼方から胸をかすめた温もりを、目蓋の裏に閉じ込めながら──。


   ※   ※   ※


 新和十六年、初夏。

 見晴るかす山嶺が黒々と連なっている。青々とした景観を残しつつも漆黒の闇に染まっているのは、デッドマターの虚無に呑まれた場所だった。

 涼やかな山風が吹き下りて山野を揺らす。太陽を浴びて伸び伸びと天へと向かう草花の頭を撫でながら、風は河原へとたどり着いた。

 新緑の風が幼子の青藤色の髪でふわりと遊ぶ。風は滔々と流れる川面を波立たせ、向こう岸へと通り抜けていった。

 たっぷりとした水を湛える川は、水源がデッドマターに呑まれていない証だ。渡るには広くて、そして深い。ゆっくりと流れているように見えるが、上流から流れてきた葉の過ぎる速さが、川の流れの速さを表していた。

 カラン──、コトン──。

 小石が敷き詰められた河原で鳴る小さな音は、川の流れる音にかき消される。

 コトン──、コロン──。

 河原に座り込んでいる幼子の顔は真剣だった。小さな手に小石を掴んでは、じっと観察して横に置く。河原の石は長い年月を掛けて転がり、砕け、磨かれて角が取れた石だ。どれもこれもが似たり寄ったりの石だったが、幼子にとっては違う。

 何度も石を拾い上げては横へ奥を繰り返していた幼子の顔が、不意にぱぁっと明るくなった。

「かーちゃ!」

 幼子は立ち上がって振り返る。その視線の先には、川縁でしゃがみ込む人影があった。たらいに水を汲み、洗濯板でせっせと洗濯をしている女性は、幼子の母親だ。彼女は我が子の声に気付くと顔を上げて振り返った。

 まだ四つにもなっていない幼子は、小石だらけの河原をグラグラと頭を揺らしながら母へと向かっていく。母はそれに声を張り上げた。

「七瀬、気をつけて」

 七瀬の母親、未央(みお)は細腕でぎゅぅっと洗濯物を絞る。力が足りず、端の方から何度も何度も絞っている間に手に力が入らなくなってきた。

 あとはお日様に任せようと決意して、たらいの水をひっくり返したところで、ちょうど息子の七瀬が母の背中に抱きついた。

「かーちゃん、みてー」

「どーれ?」

 母は前掛けで手を拭き、差し出して微笑む。七瀬の髪よりも少し色の濃い藤色の髪をほっかむりで覆う彼女の面差しは、息子とよく似ていた。年の頃は二十歳をいくつも超えていない。くすんだ色の着古した丈の短い着物を身に纏っている。たすき掛けをした袖から露わになった腕や、裾から覗く足首は、透き通るように白くて細かった。

「きれーな石ー」

 七瀬は満面の笑みで母の掌に石を載せる。小さな俵型の石は、灰色の上から薄青い色の染料を薄く塗り伸ばしたような色をしていた。

 未央は石をつまみ上げると、顔をほころばせて七瀬の頭をそっと撫でる。

「ほんとだ。綺麗だねぇ」

「かーちゃにあげる」

「いいの? ありがとう。七瀬に綺麗な石もらうと元気になっちゃう」

「ほんと?」

「ほんとだよー」

 母にぎゅぅ、と抱き締められて、七瀬もぎゅっと抱き返す。

 こうして母と出かけるのは久しぶりだった。七瀬の母は身体が丈夫ではなく、つい最近まで伏せっていたからだ。外に出られるのは母が元気になった証だった。それが分かっているから、ようやくお日様の下に母と出られた七瀬は、始終ご機嫌な笑みを浮かべていた。

「よし。それじゃ、そろそろお家に帰ろうか」

「うん!」

 未央はまだ水の滴る洗濯物と洗濯板をたらいにまとめて入れて立ち上がる。太陽は大分高い位置まで昇っていたが、今日はいい天気で風もあるから、今からでもよく乾くだろう。

 水を吸った洗濯物はずしりと重い。両手で抱えるようにして持てば、七瀬は母の着物をぎゅっと握りしめて付いてくる。

 河原の石に足を取られないようにふたりで慎重に歩いていれば、背後から、おぅい、と呼ぶ声があった。くるりと振り返れば、川に掛かる沈下橋の中程で男が大きく手を振っている。七瀬の父の渉(わたる)だ。背中には大きな籠を背負っていた。

「とーちゃ!」

 その姿に飛び上がった七瀬は、父の元へ走り出した。今朝早くに畑に出て、その足で川向こうの街まで行っていた父が帰ってきたのだ。

「気をつけて」

 母の言葉が聞こえているのかどうか。七瀬は途中途中、石に足を取られながらも父の方へと一目散だ。未央もそれについていく。大股で橋を渡りきった渉は、掬うように七瀬を高く抱き上げた。

「ただいま」

「おかえりー」

 三十路手前の青年は七瀬を腕に座らせると、目尻にくしゃりと笑いじわを寄せて七瀬の頭を撫でる。

「お帰りなさい」

「ただいま。洗濯物?」

 ひょいと未央が持つたらいの中を覗いた渉は、一旦七瀬を下ろすと水の滴る洗濯物を手に取った。それをその場で固く絞ると、未央からたらいを受け取って小脇に抱える。

「今日は調子が良さそうでよかった」

 渉は言いながら空いてる手を七瀬に差し出す。七瀬は小さな手で父の手をぎゅっと掴むと、反対の手を母へと差し出した。

「たまには身体を動かさないと。ねー、七瀬」

 未央が七瀬の手を握り返す。両親と手を繋いだ七瀬は丸い頬に満面の笑みを浮かべると、ぴょんぴょんと跳ねて歩いた。

 そんな息子に父は相好を崩して尋ねる。

「ご機嫌だね、七瀬。何してたの?」

「きれーな石見つけた」

「七瀬は綺麗な石を見つけるの上手だもんな。どんな石? 父ちゃんにも見せて」

「かーちゃんにあげた。ね?」

 同意を求めて見上げる息子に頷いて、未央は七瀬にもらった石を見せてあげた。

「本当だ。いいなぁ、父ちゃんのはないの?」

「ないの」

 きっぱり言われて渉は吹き出す。

「あはは! そっか、ないかぁ」

「でもね、おうちにあるのわけてもいーよ」

「ホントに? 楽しみだなぁ」

 一家の家は、川にほど近い村の外れにある。村の地主から田畑を借りて、そこで作った作物を売って生計を立てていた。渉が背負っている籠の中には、街で買ったり物々交換してきた肉や日用品が入れられている。

 誰に急かされるでもない、ゆったりとした時間だった。ひらひらと飛んでいる蝶々に追い抜かされるほどの、のんびりした足取りで家路を行く。

「そういえば、最近街に燈京から人が来るんだって」

 思い出したように渉が言えば、未央は不思議そうに夫を見上げた。

「人? 防衛本部?」

 数年に一度、防衛本部から因子検査のための人員が派遣されてくる。人が来るといったらそのくらいだ。しかし、渉は首を振った。

「違うみたいだ」

「港町の方ならまだ分かるけど......あなたが言ってるのって、川向こうの街のことだよね? わざわざ燈京から何をしに?」

 燈京は、この地から遙か遠い場所にある。陸路は侵食領域によって分断されていた。行き来可能なのは船を用いての海路であるが、誰でも容易く行き来できるというものではない。

「移住を勧めてるんだって。この辺りもそろそろ危ないらしい」

「そんな......」

 未央は絶句した。それと同時に、ついにという思いもある。この辺りがまだデッドマターに呑まれていないのは、単なる偶然に過ぎない。山を蝕む侵食を見ていれば、遠くないうちにこの場所もデッドマターに呑まれるだろうことは一目瞭然だった。

 だが、だからといって人々には対抗手段がない。結倭ノ国を守るという大儀を掲げている防衛本部も、こんな辺境の地までは守ってくれないのだ。

(──志献官の徴発だけはいっちょ前にやるくせにな)

 渉は内心で溜め息をついた。

「でも、移住って言ったって......どこへ? 燈京?」

 不安そうな妻に渉は眉を下げて首をかしげる。

「かなぁ? 詳しい話はぼくも分からないけど。もし燈京だったら行きたい?」

「んー......」

 未央がチラリと七瀬を見下ろす。その視線に気付いた七瀬はぱっと笑顔になった。

「そうだね......ここよりはずっと七瀬が安心して大人になれるかな。でも......」

 未央は苦笑した。この地から出たことがない彼女にだって分かる。現実はそう容易いものではない。

「きっと、わたしたちにその話が回ってくるのはずーっとあとだよね」

「そうだなぁ......」

 自分たちが燈京行きを望むように、他の人だって行けるものならば行きたいと望むだろう。渉は幼い頃に旧世界の地図を見たことがある。燈京がある場所は、希望者全てを抱え込めるほど広い場所ではないことも知っていた。きっと、今いる人々の暮らしを支えるだけで精一杯のはずだ。そこに移住するとなれば、文字通り、厄介者になりかねない。

 溜め息交じりに顔を見合わせながら歩いていると、やがて、道の先に家々が見えてくる。昼の支度をしているのだろう、炊事の白い煙が家々から上がっていた。その村の外れにある、お世辞にも立派とは言えない小さな家が一家の住み処だ。

 渉はそれを見るともなしに見ながら目を伏せた。

 貧しい村だった。皆が協力して生活をしている。噂の"燈京から来た人"は、街の人たちに声は掛けても、川のこちらまでは来ないだろう。

 不意に、繋いでいた七瀬の手に力がこもる。両親の切ない諦念を感じ取ったのだろうか。柔らかい、小さな手が愛おしい。

「燈京かぁ......」

 渉も未央も早いうちに家族を失った、天涯孤独の身だ。幸い、お互い両親を失ってからも親切な人に恵まれていて路頭に迷うことはなかったが、どれだけ親切にしてくれたところで、他人は他人だ。彼らの親切に一時的に頼ることはあっても、家族のように甘えるわけにはいかない。それが故郷を離れた全くの新天地となればなおさらだ。お金も、仕事も、頼れる相手もいない場所で家族三人幸せに生きていける光景は、夫婦には残念ながら浮かんでこない。

「七瀬だけでも、行かせてやれればいいんだけど」

 渉は諦めたように吐き出した。

 この先十年、二十年後もこの場所が無事だなどとは思ってはいなかったが、終わりは思ったよりもすぐそこまで来ていたらしい。

 七瀬は夏が来れば四つになる。この幼い子が大人になれずに死んでいくのは、あまりにも不憫に思えた。けれど、だからといって甘えたい盛りの子供をひとり燈京へと養子に出せるかと言えば、渉も未央も首を振る。こんなご時世だ。いい養親に恵まれるとは限らないし、何よりも手放しがたい。

 やはり、一家で移住を検討すべきなのだろうか......考えれば考えるほど堂々巡りだ。

 自分たちは、この子のために何をしてやれるだろう。七瀬のためなら何でもしてやりたいのに、ふたりに出来ることはあまりにも少なかった。

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