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24.08.18
結合男子 -Fragments from Dusk-:断章-九- 塩水流一那の追儺(1)
著者:麻日珱
新和十五年──。
ひらり──一枚の花弁が舞い落ちる。
男はふと顔を上げた。山のあちこちに煙(けぶ)るように咲く山桜が、風に乗ってやって来たのだろう。山間にある小さな茶屋の外で長椅子に腰掛けていた男は、風流な光景に目を細めた。
「はいよ、おまっとさん」
茶屋の店主である老人が、桜餅と緑茶を乗せたお盆を隣に置いていく。ありがとう、と男が会釈すると、老人は曲がった腰を伸ばしながら、あ、と声を上げた。
「こりゃぁ、しまった。やっぱり中で食べちゃどうですか?」
熱い湯飲みを手に取った男は小首を傾げた。今日は天気がいいから気持ちよかろうと、外での一服を提案してきたのは老人の方だ。
「どうかしたのかい?」
「いやぁ......」
老人はもごもごと口ごもりながら前掛けをいじる。その視線がチラチラと明後日の方向に流れているのに気がついて、男もそちらへ首を伸ばした。笛と太鼓の音を響かせながら、村人たちが列を成してこちらへ近づいてくる。
「おや......? 今日は祭りかい?」
「いやぁ、あれは......」
老人は再び口ごもる。男は気にせずにその一団をじっと見つめた。
行列に担がれて、小さな神輿が揺れている。四本の柱に屋根を乗せ、壁の代わりに向こうまで透けそうな白い薄布で囲っただけの、何とも質素な代物だ。神輿と呼んでいいものか迷うほどみすぼらしいが、中にはご神体でも乗せているのか、影がぼんやりと透けている。
「長年ここに薬売りに来てるが、この時期に祭りがあるなんてなぁ、初耳だ」
男は傍らの大きな行李をぽんと打った。男は薬売りだった。各地を転々と訪れては、各家庭の置き薬を補充・交換して回っている。デッドマターの出現のせいで年々行ける場所が狭まってきてはいるものの、見捨てられた里村に薬を届けるためには自分のような存在が必要なのだと自負していた。
そういうわけで、各地を巡る時季というのは毎年ほぼ同じなのだが、一度たりとも、どの家庭からも祭りをやるという話は聞いたことがなかった。
祭りの行列も、笛や太鼓の音が響くほかは恐ろしいほど静かだ。加わる者たちは陰気な顔をして、妙に足早だった。厳かと言うよりも、異様な空気を感じる。
「ありゃぁ、何の神様だい?」
輿がもうすぐにでも薬売りの前を通り過ぎるという時だった。ふぅ、とまるで誰かの息吹でも通り抜けたような風が吹き、輿を囲う布を巻き上げる。
「あ......」
子供だ。里を囲む深い山々のような緑の髪をした子供が、目を伏せて鎮座している。死装束を思わせる白い衣は、神輿に負けず劣らず質素だ。まだ十を過ぎたくらいだろうか。ちらりと、新芽が萌(めぐ)むような淡い瞳が横目で男を捉え、すぐに逸らされる。ふわりと下りた薄布に阻まれて、それ以上は見えなくなった。
「──あれは、子供か?」
「生き神様です」
呆けたような薬売りの問いに、隣で拝んでいた老人が答える。
「生き神様?」
やはり、子供が乗っていると思ったのは見間違いではなかったのか。
「ええ。燈京には、志献官ってぇのがいるでしょう? でも、あの子は違う。生まれながらにデッドマターを退ける力を持ってるんです」
「へえ、そりゃぁすごい。けど、本当に?」
職業柄、デッドマターを避けて色々な場所を巡ってはいるが、志献官以外でデッドマターを退ける力を持つ存在など聞いたこともない。
やや疑って老人を見やれば、老人は顔のしわを深くするように笑んで頷いた。
「もちろん。この里がデッドマターに襲われないのもそのおかげでさぁ」
「でもなぁ......何か絡繰りがあるんじゃないかい? あんな子供が」
「絡繰りなんてぇ、とんでもねえ! 実はね、ここだけの話なんですがね──」
老人は声を低くする。薬売りは去って行く行列を見送りながら、老人の話に耳を傾けた。
「あの子供は、デッドマターに飲まれた女の胎(はら)から産まれた怪物なんですよ」
「へえ。そりゃぁ、面白そうな話だね」
「!」
不意に聞こえた声に、薬売りはぎょっと空いている右隣を見た。長椅子に腰掛けた黄色い髪の男が、薬売りに出された桜餅をパクリと頬張っている。
「うん、うまい。すまんね、もらっちまって。ちょうど腹が減ってたもんでさ」
着流しに白い上着を引っかけた男は、人好きのする笑みを浮かべて謝った。年の頃は三十前後といったところだろうか。地元の者という風体ではなかった。首や腕、胸に至るまで表に出ている箇所で傷跡の見えない場所がない。明らかに堅気ではなかった。
「おやっさん──」
もしや知り合いだろうかと薬売りは老人を振り返ったが、老人は小さく首を振るばかりだ。ここの客でもなさそうだった。
「うん? 俺が聞いちゃまずい話? じゃあ、仕方ないか。ここには人を探しに来たんだけど、ちょっと話聞いてもいいかい?」
傷は派手だが、悪い人間ではなさそうだ──表面上は。ただ、この男の腹が何であれ、取り繕った上辺を剥(は)いだところでろくなことにはならないと、薬売りは長年の経験で知っていた。
「オレぁ、この里のもんじゃねえから、おやっさんに聞いてくれ」
男は首を振った。
生き神様と呼ばれている子供の話は気になるが、目の前の男はあまり関わりたくない手合いだと勘が訴えている。男の相手は老人に全て任せることにして、薬売りは帰りの支度を始めた。生き神様の話は、また今度来たときにでも聞けばいい。
「こんな顔のヤツなんだけどね」
男が懐から写真を出して見せている。老人は老眼鏡を掛けてしげしげと眺めると、ああ、と頷いた。
「そいつならだいぶ前に死んだよ。もう十年以上経つかなぁ」
「そうかい。やっぱりここにはいたのか......」
薬売りはチラリと目を上げて、改めて若い男を見た。残念そうに眉を下げて写真を懐にしまっている。
(ああ、そうだ。あの制服......)
既視感があると思ったんだ、と納得しつつ、薬売りは大きな風呂敷で包んだ行李を背負って立ち上がった。
「そんじゃ、お先失礼しますよ。──志献官殿」
目礼すれば、志献官も愛想よく笑って会釈する。
薬売りはなんと成しに子供を乗せた神輿が去って行った方向を見返った。
あの生き神と呼ばれた少年が失敗しても、志献官がいるのならば大丈夫だろう。
※ ※ ※
少年の視界の端を白い影がチラリとかすめる。山桜の花びらだ。ひらひらと舞うそれを追いかけて落とした視線の先で、少年は白い着物の裾に付いた泥に気がついた。裾だけではない。山の中を走り回った少年は、あちこちが泥や草の汁などで汚れていた。それに少しだけ"力"をやる。幻のように汚れは消えたが、近くに伸びていた葉も白くなって枯れた。
「......」
少年はそれから目をそらし、逃げるように一心に足を進める。里山の終わりに咲き誇る山桜がちょうど見えたところで、遠くに聞こえていた笛や太鼓の音が身に迫った。
少年が山を出ると、おお、と低い声が上がった。同時に、笛や太鼓が奏でる音楽も止む。
山を出た少年を待っていたのは、ひれ伏す村人たちだった。
「一那様がお戻りになられた」
「一那様がまたデッドマターから我らを守ってくださったのだ」
村人たちから発せられる歓喜の声は、どこか熱に浮かされたように狂気じみている。
何もかもが見慣れた光景だった。里の周囲でデッドマターが現れる兆しがあると、まるで尊い者のように担ぎ出される。物心つく前からそうだった。
生き神だ、守り神だと持て囃(はや)したところで、所詮は自分たちの安全のために一那を利用しているに過ぎない。両手を合わせて拝む自分たちの顔がどれだけ浅ましいか、彼らは知りもしないのだろう。
一那が感情のこもらない眼差しで彼らを見ていると、熱狂が失せた村人たちの口から、言い訳がましい言葉と謝意が口からもごもごと発せられた。やがてばつが悪そうに目配せをしあった村人たちは、そそくさと去って行く。残されたのは、捧げ物と称して置かれた食料だけだ。一那が乗ってきた輿は、送られてきた一那が下りた直後に引き返している。これも、いつものことだ。
(別にいいけど......)
輿で運ばれるのは好きじゃない。生け贄にでもなったような心地になる。デッドマターを退けてくれと頼まれたのなら、仰々しい行列など作らなくても行く。それでも、輿で運ぶのは、結局村人たちが一那を信用していないからだ。後ろめたいことをしている自覚があるから、彼らは一那が彼らの頼みを拒絶することを恐れている。
そうやって恐怖を畏敬と偽りながら、村人たちが一那を何と呼んでいるのか知っている。
化け物の子、怪物の子、鬼の子──何と呼ばれようと、一那はどうでもよかった。
(生ものは困るって言ったんだけどな。誰もちゃんと聞いてないんだから)
捧げ物を持って帰るためにまとめる。米や味噌、塩などはありがたい。反対に、日持ちしない野菜や肉は少し困る。だが、生きた鶏はそれなりに嬉しい。卵も産むし、肉にもなるから。
そんなことを思いながら荷物をまとめていると、横からほっそりとした手が荷物の一部を取り上げた。
「──母さん」
「お帰りなさい、一那。無事でよかった」
「ただいま。──平気だよ。お役目だもん」
ごめんね、と言う母に首を振る。母が悪いことなんて何もない。一那には父がいない。母だけで村人たちに強く請われて拒否できるはずがないのは、一那にだって分かる。だからといって、拒否して里から出て行くことも許されない。それこそ、何をされるか分かったものではない。デッドマターを退けるという役目は大変だったが、母が村人たちに責められるよりはずっとましだった。
「それより、見てよ。野菜にお肉──こんな季節だから、早く食べないと傷んじゃう」
冬が終わり、春がそこまで来ている。水はまだ冷たいが、空気は解けるようにぬるみ、日差しは眩しく温かい。
「そうだね。それじゃあ、今日はごちそうを作ろうか」
悲愴な顔をしていた母が、頬を緩ませ目尻を下げる。
たとえ、村人たちが一那を畏れながら厭おうとも、母がいてくれればそれでいい。ふたりで生きてきたのだ。これからだって、ふたりで生きていく。
デッドマターが現れないときは、一那は里にとって空気のような存在だ。まるでそこに存在しないかのように、誰もが見て見ぬ振りをする。直接虐げられこそしなかったが、もっと幼かった頃は大人たちの強ばった、必死に自分から目を背ける横顔が何を意味するのか分からず困惑した。デッドマターと戦うときだけ、文字通り担ぎ出されるのだからなおさらだ。
そうやって忌避しながらも一那を手放さないのは、一那には"力"があったからだ。デッドマターに対抗する力だ。本来ならば防衛本部の志献官にならなければ使えない"力"を一那は生まれながらにして持っていた。
(どうしてオレは、こんな"力"を持ってるんだろう)
家路を母と並んで歩きながら一那はチラリと母を盗み見る。今よりも幼くてデッドマターと戦う役目が辛くてたまらなかった頃、母に泣きながら聞いたことがある。母は困ったような顔をして、分からない、と言いながら、駄々をこねる一那の涙を拭った。どうして父がいないのか聞いたときにも同じ顔をしていた。
一那の父は、一那が生まれる前に死んだそうだ。なぜ死んだのか、どんな人だったのか、母は教えてくれない。いつも何か戸惑うように唇を震わせては、ごめんねと返って来るだけだと理解してからは、父については何も尋ねなくなった。
だから、一那はこっそりと想像している。この力は、父親に何か関係があるのではないかと。
(そうだったらいいな......)
そうすれば、顔も知らない父との繋がりが確かにあるのだと、安心できるから。
「──あれ? 誰だろう」
一那はきょとんと首を傾げた。
里の外れにぽつんと建っているのが一那の家だ。故郷であるこの里には母方の祖父母も健在らしいが、一那は生まれてから一度も会ったことがない。物心つく前には、この小さな家で母とふたりで暮らしていて、祖父母が会いに来ることも、こちらが会いに行くこともなかったからだ。
その家の玄関前に人が立っている。こちらに白い上着を引っかけた背中を向けているのは、黄色い髪の随分と長身の男だった。
「一那。すぐに家にお入り」
母の声が緊張した。一那よりも一歩前に出ると、ずんずんと進んでいく。一那は母の後ろに隠れながら玄関前の男を伺った。
「──どちら様?」
尖る母の声に男が振り返る。一那は思わず首を竦めた。若い男だった。顔には大きな傷跡がある。
「どうも。お姉さん、ここの人?」
男はへらりと笑い、母の後ろにいる一那を覗き込もうとした。すぐさま母が遮る。一那は促され、家の中へと駆け込んだ。戸を閉めて、はあ、と息をつく。ぴったりと戸にくっついていると、男の少し呆れたような声が聞こえた。
「そんな警戒しなくても」
「生憎、よそ者に分けてやる愛想はないんだ。用件があるならさっさとお言いよ」
「じゃあ早速──こいつのこと、知ってる?」
「......知らない」
母の声は明らかに嘘をついていた。こいつとは誰だろう。戸を開けてしまいたかったが、言いつけを守って堪える。
「そ? そりゃぁ残念だ。ところで、茶屋で面白い話を聞いたんだけど。生き神様の。さっきの子だろ?」
一那はゴクリと唾を飲んだ。よそ者が、自分に何の用だろう。里の人たちと同じように、一那を生き神様としてデッドマター退治をさせるつもりだろうか。
「デッドマターを退ける力があるんだって? そりゃ志献官の力だ。だったら、防衛本部に入れるのが筋じゃないか?」
「ハッ! いかにも身勝手な志献官の言い分だ。冗談じゃないよ! あの子までお前たちの犠牲にさせるもんか。帰れ! あたしは志献官が大嫌いなんだ!」
母の剣幕に一那は緊張する。村人にだって、こんな口調で怒鳴り散らしている声を聞いたことがない。
「怖い怖い。まあ、今日のとこは帰るさ」
「二度と来るな!」
母の叫びを最後にしんと静まりかえる。一那が固まっていると、勢いよく戸が開いた。
「っ! 一那......」
「母さん......」
怒りで強ばっていた顔がさっと緩む。母は座り込んでいる一那に手を伸ばすと、ぎゅっと抱き締めた。
「大丈夫。大丈夫だから。あいつらの所になんか、やらないからね。絶対......絶対に渡さないから」
母の震える背中を抱き返しながら、聞きたいことはたくさんあった。
あの人は何者なのかとか、誰のことを聞かれたのかとか、どうしてそんなに志献官を嫌っているのかとか......。
けれど、どれひとつ聞けないまま、一那は戸が開けっぱなしの玄関が切り取った、春の空を見つめていた。
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