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24.08.25

結合男子 -Fragments from Dusk-:断章-九- 塩水流一那の追儺(3)

著者:麻日珱

前回「断章-九- 塩水流一那の追儺(2)」はこちら

 一那はパチッと目を開いた。もう大分夜も深いというのに、完全に目が冴えていた。身体は疲れ切っているのだが、眠気は全くやってこない。

 家に帰った一那はボロボロと涙を流す母に迎えられたあと、湯を使って身体を清め、いつものように差し入れられた食料で腹を満たし、布団に入った。隣の布団では母が寝息を立てている。一那はその横顔をじっと見つめた。母が起きている間は気まずさのあまり目も合わせられなかったが、寝ている今ならば見ることが出来る。

 育ててくれたこの人は実の母ではなく母の姉──つまり、伯母だった。複雑な思いが一那の中で渦巻いている。血は繋がっているけれど、本当の母親ではない。けれど、本物の母に負けないほど大切に育ててもらった。母が本物でないなんて、一度も疑ったことがない。

(でも......)

 母は一那を引き取ったせいで村人たちから不当に迫害を受けてきた。一那を引き取りさえしなければ、受ける必要もなかった迫害だ。むしろ、妹と恋人を失ったと同情されたっていいはずなのだ。

 それでも、母は白眼視される中で一那を育てることを選んでくれた。

(どうしてだろう)

 一那を引き取ったせいで人生が壊れたと、恨んだとしてもおかしくないのにこれほど愛情を寄せてくれる理由があるのだろうか。

(恋人が志献官だったから?)

 猟師の話では、母は一那を引き取ったとき、赤ん坊が無事だったのは恋人が守ってくれた証だと言っていたらしい。一那のこの"力"も、恋人が今も変わらず一那を守り続けてくれているのだと。

(じゃあ、何で志献官が嫌いなのかな......)

 一那は身体を起こして母を見やった。

 先日、家の前に立っていた傷だらけの男。母はあの男を志献官と呼んでいた。村人の誰に対しても、あれほどまでに嫌悪と敵意を剥き出しにした母を見たことがない。

「......ぐるぐるする」

 胸の中が言い知れぬ感情でいっぱいだった。不安や焦りに似ている。母を揺り起こして聞いてみたい衝動に駆られたがギュと両手を握り込んで堪えた。

 一那はふらりと視線を巡らせた。母が書き物をする小さな机の上には日記帳が置いてある。寝る前に母が必ず付けている日記だ。一那が物心ついたときにはすでに日記を書いていた。

 一那が生まれた頃も書いていたはずだ。

(読めば、分かるかな)

 日記が保管されている場所は知っている。母も別に隠していない。

 一那はそちらに向かおうとして動きを止めた。

「......ダメだ」

 一那は小さく首を振って布団に潜る。一番身近な人とはいえ、人の日記を勝手に覗くなんて、そんなことしてはいけない。一那が真実に触れてしまったことは母も分かっているのだ。ならば、過去の事実ではなく、今の言葉で話してくれるのを聞きたい。

(きっと、話してくれるよね......)



 翌日、一那は少し浮かれた心地で家を出た。昨日助けてくれた猟師に会いに行くためだ。

 母が言うには、あの猟師は元々里の外れ者で、あまり交流がなかったそうだが、母が一那を育て始めてからひっそりと交流が続いていたらしい。一那がデッドマターを退けるために山の中に入るときについてきてくれていたのも、そのためだったそうだ。

 詳しい話は猟師を交えてしたいという母に、一那は一も二もなく頷いた。もう一度、あの猟師と話をしてみたいと思っていたのだ。母以外の人とまともに会話をしたのは猟師が初めてだった。昨日の夜、興奮して眠れなかった理由のひとつがそれだった。

 自分を畏れもしない、腫れ物のように敬いもしない。そんな人との会話は、一那が思っている以上に気分を高揚させた。ようやく、ちゃんと人間扱いされた気がした。

 もっと色んなことを聞きたい。もっと色んなことを話したい。

 そんな、どこかふわふわとした気持ちで猟師の家へと向かっていたときだった。

 絶叫が耳を劈(つんざ)いた。反射で身構える。絶叫は集落のどこかから響き、逃げろと叫ぶ声がする。

「まさか、デッドマター?」

 昨日感じたような不快な感じはない。だが、里を脅かすものなんて、デッドマターくらいしか考えられない。

「行かないと......」

 それが、一那の役目だから。その役目があってこそ、この場所で生きるのを許されているのだから。

 一那は走った。悲鳴は断続的に上がっている。どうしたのだというように、村人たちが不安げに家から出てきていた。

「一那!」

 背後から母の声がした。急に走り出した一那を追いかけてきていたのだ。

「母さん! 家に戻ってて!」

 叫んだが、母はこちらへ向かってくる。

「あ......」

 ぬっと、母の背後、家と家の間から、黒い巨大な影が現れた。一那が通り過ぎたときには、まるで気付かなかった大きな熊が。

「母さん、後ろ!」

 一那の声に母が後ろを振り返る。その大きな熊は、被毛を血で濡らし、明らかに殺気立った様子で母へと突進してきた。

「グオオオッ!」

 身の毛のよだつような咆哮に一那は一瞬たじろいだ。あれは、昨日の親熊だ。

「っ、一那! はやくお逃げ!」

 巨大な熊が逃げる母の背中へと迫る。一那は全力で走ったが、間に合わない。

「母さん!」

 無意識に"力"を解き放っていた。一那から放たれた黄緑色の気体が、地を素早く這うように広がっていく。

「──っ!」

 突然、つんのめるように母が倒れた。気体に触れた熊はびくりと身を翻すと、カハッ、カハッと激しく咳き込みながら背を向け、数歩も行かぬうちにどうっと倒れた。

「あ......」

 一那は口を押さえた。溢れ出るガスが抑えきれずに両手から漏れる。鼻からも、目からも。息を止め、唇を噛み締めて、堪えて、それでも、体中から噴き出るガスが止まらない。

 恐怖が全身を支配していた。

 一那は震える足で母の元へと歩み寄る。

 母は、苦悶の表情を浮かべ、無残な姿で息絶えていた。

「ああ......」

 膝をつく一那の耳に、あちこちで人の倒れる音が届く。一那はひゅっ、ひゅっ、と短く呼吸を繰り返しながら辺りを見回した。

「一那ァ!」

 びくりと肩を震わせる。

 一那は黄緑色の煙幕の向こうで、こちらに向けられている銃口を、見た。

「このっ、怪物がぁ!!」

 猟師の目は見開かれ、怒りに燃えて、憎悪に満ちて──しかし、放たれた散弾は一那に当たることなく逸れて、猟師は反動で仰向けに倒れていく。

 彼も死んだのだろう。母も死んだ。村人も死んだ。

「ウソだ......」

 一那は両手で頭を抱えた。

 頭の中で声がする。

 声が、こえが、コエガ──壊セ、殺セ、滅ボセ、破壊シロと、響いて、喚いて、頭を、心を、塗りつぶしていく。

「あ......あああああああああああああっ!」

 絶叫と共に、全てを解き放つ──爆発するように溢れ出た力は里を覆い、生きとし生けるもの全てを殺し尽くした。



「──」

 しんと静まりかえった里にふらりと少年は立ち上がった。目には生気がなく、焦点が合っていない。

 少年の頭の中は真っ白だった。赤子のように何も知らず、理解もできず、ただ呆然と立ち尽くす。

 自らの足下に転がるのが、母だということも分からない。"人間"というものであることも分からない。命があったということも分からない。自分が何であるかさえ、少年は分かっていなかった。

 身体の動かし方さえ曖昧で、少年は何度も転び、膝をつき、這うように死体の合間を移動した。

 それは、半ばすり込まれた帰巣本能のようなものだったのだろう。少年は見知らぬ我が家を求めて、薄れていく黄緑色のガスの中をゆっくりと移動していった。

「あーあ。こりゃぁ、ひでぇ」

 音が降ってくる。突如目の前に現れた"壁"を辿るように、少年はぼんやりと見上げた。

 モヤが晴れた空を背に男がひとり。辺りをぐるりと見回しながら、何かをブツブツ言っている。

「──こいつぁ、とんでもねぇ怪物だぜ」

 全てまっさらになった少年にとって、男の言葉は何の意味も成さなかった。雨音や、風音、鳥のさえずりと同じ、音の羅列として通過していく。ただ、その音が妙に強く響いたのは、その声以外の一切の生きた音が、そこには存在していなかったからだ。

「うん? どうした?」

 男は少年の顔を覗き込み、目の前でひらひらと手を振る。

「おーい? ありゃ......壊れちまったか。ったく、当てが外れたかぁ?」

 男はひとつ溜め息をつくと、少年の腕を掴んだ。少年に抵抗する力はなく、また、抵抗する意味もない。ひょいと肩に担がれて、どこかへと連れて行かれる。

「俺もガキ相手にこんなことはしたかねぇんだけどさ」

 男はぼやきながら、木の根や下草の生い茂る山を奥へと分け入った。

「──とりあえずまあ、ぶっ壊れたならぶっ壊れたなりに力を見せてみろよ」

 ふっと、身体が軽くなった。まるで物を放り投げるように雑に落とされて少年は地面に転がる。痛みはさほどなかった。

 少年は仰臥した。眼前に広がる空は夜のように暗く、しんと静まりかえっている。微かな風に揺れる木の葉の音すらしない。何の音もしなくなった里よりも、さらに静かな場所だった。

「侵食領域の中でも問題なさそうだな。じゃあ、しばらくしたらまた来る。生きてたらまた会おうぜ」

 男が発する音など、少年にはどうでもよかった。ただ、連れてこられた場所の居心地の良さに身を委ねて目を閉じる。

 そこには何もなかった。色彩も、時間も、生命も。

 たったひとつ、虚無だけがそこにある。

 男は少年を置いて音もなく去って行ったようだったが、男のことなどすぐに忘れた。

「......」

 闇がぞろりと蠢いている。少年はゆっくりと目を開けた。名も知らぬ異形が少年を覗き込んでいる。濃く伸し掛かる闇の重みが心地いい。

《──》

 声が、真っ白な脳裏にパチパチと弾けた。その声はあっという間にまっさらになった少年の内側を、真っ黒に染め上げる。

「──ハッ」

 全て、全テ、壊シテしまエ──。

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