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24.08.07
結合男子 -Fragments from Dusk-:断章-八- 凍硝七瀬の氷消(4)
著者:麻日珱
前回「断章-八- 凍硝七瀬の氷消(3)」はこちら
その、翌朝のこと。
「っ──」
声にならないうめき声を聞いて、七瀬はゆっくりと目を瞬かせた。寒さにぶるりと身を震わせる。まだ夜が明けたばかりだろうか。家の中は仄明るく、キンと冷えている。
七瀬は両手をついて身体を起こすと、座り込む父の痩せた背中を見上げた。
「っ......うう、っ」
堪えようとしても堪えられずに漏れたような、そんな嗚咽だった。
「......?」
七瀬は小さく首を傾げた。父はどうして泣いているのだろう。よく見れば、父が母を強く抱きかかえている。
そんなに強く抱きしめたら、かーちゃんが苦しい。
寝ぼけた頭で思いながら、七瀬は震える父の背中に手を伸ばした。
「とーちゃん」
「っ!」
びくりと父の肩が大きく跳ねた。父は七瀬に背を向けたまま顔を袖で拭って振り返る。
「七瀬......」
父の目は真っ赤だった。小さく鼻をすすり、声も酷くしわがれていた。
母はまだ眠っているのだろうか。
這い寄って手を伸ばせば、パッと父に掴まれる。一瞬触れた母の手はとても冷たかった。
「かーちゃん、さむいの?」
「ななせ、母ちゃんは......母ちゃんは......っ」
父は何度もそうして噛みしめたのであろう、赤く充血した唇を噛んで、ハア、と短く強く息を吐き出した。
「......母ちゃん、ちょっと疲れちゃったみたいだ」
父は母をそっと布団に横たえた。母の顔をのぞき込もうとした七瀬はやんわりと止められる。母はまだ眠っているのだろうか。
七瀬が父を覗き込めば、父は唇を噛み締めた。
「っ、どうして......」
空虚な声と共に、父は世界の全てから隠すように七瀬を腕の中に抱き込んだ。
「ああ......どーして、上手く行かないんだろうなぁ......」
苦しげに吐き出して、そのまましばらく身動ぎもしない。ただ、その痩せた薄い胸の奥で心臓が速く脈打っているのを、七瀬は小さな耳で聞いていた。
「とーちゃん?」
「......」
父は無言で七瀬を抱き上げる。きょとんとその横顔を見つめる七瀬に目も合わせず、七瀬に草履を履かせて家を出た。
「どこ行くの?」
「......」
外の風は身が縮むほどに冷たい。薄雲が空を覆っていた。夜の寒さを残したまま、太陽の温もりはどこにもない。吐き出す息は真っ白に空気を染め上げて、滲むように消えていく。吹き付ける風に身体を震わせた七瀬は、父にしっかりと身を寄せた。
七瀬の問いにも答えずに進むのは、いつも歩いている河原への道だ。慣れた道行きにホッとする。ただ、それとは別に漠然とした不安が大きくなっていく。
川へ近づくほどに寒さは増していくようだった。山から下りてきた風は容赦なく吹き荒び、七瀬と父の体温を奪っていく。
いつの間にか、七瀬の鼻先も、耳も、丸い頬も赤く色づいていた。
「はぁ......」
七瀬はかじかむ手に息を吐きかけた。気休め程度にしかならない。小さな手をこすり合わせて、指先を握り込む。骨に染みるほどの寒さに、七瀬の歯がカチカチと鳴った。父に触れているところだけが温かかった。
父は河原に着くと、足を止めて立ち尽くした。滔々と流れる川をぼんやりと見つめている。虚ろな目は何も捉えていないようだ。
「......」
父はおもむろに七瀬を下ろす。離れていく温もりに手を伸ばしながら、七瀬は父を見上げた。
「とーちゃん」
泣いているような顔で、父は七瀬の頭を撫でる。大きな手がもつれた髪を梳かしながら何度も頭を撫でた。そのかさついた指先が存在を確かめるように頬に触れ、細い肩を包む。
「綺麗な石を見つけて、母ちゃんに持っていってあげようか」
「かーちゃん、げんきになる?」
父は笑うのに失敗したように顔をくしゃりとさせて、七瀬から顔を背けた。
「きっと......きっと、喜ぶよ」
行っておいで、と背中を押されて、七瀬は一歩二歩と進んで父を振り返った。
「父ちゃんもあっちで探すから」
「うん」
七瀬は頷いて河原にしゃがみ込んだ。
石は外の空気よりもずっと冷えていた。凍える指先を温めながら、これじゃない、これも違う、と脇に重ねていく。
石を探すためにしゃがみ込んだ小さな丸い背中を、渉はぼんやりと見つめた。まるで早朝の空気のような母親譲りの薄青い髪は、朝にとけて消えてしまいそうだ。
(なんで、上手く行かないんだろうなぁ......)
今朝、目を覚ましたときには妻の息はもうなかった。体温は失われて、身体は硬くなり始めていた。母の死を、七瀬にどう伝えればいいか分からず、こんな所に出てきてしまった。伝えるのを先延ばしにしたところで、家で待つのは母の亡骸だけなのに。
けれど、それを口に出して伝えるには、まだ覚悟が出来ていなかった。
(あと、少しだったのに......)
燈京行きの船に乗って、病院で妻の病気も瞬く間に治って、防衛本部に守られた燈京で安心して七瀬を育てられる──そんな幸せな夢を、見た。
温かな気持ちで目覚めて真っ先に目にしたのは、残酷な現実だ。
(......この先、どうしたらいいんだろう)
もう、考えるのも疲れてしまった。
朝も夜もなく働いて、それでも貯まるお金は微々たるもので。頭を下げて、へつらって、仲介人になけなしの金を差し出しながら地面に額をこすりつけて、踏み躙られて、やっと、やっとのことで燈京に行けることになったのに。
(楽しみだって、言ってたじゃないか......)
昨夜の七瀬に微笑みかける妻の顔を思い出して目頭が熱くなる。涙が溢れないようにぐっと抑えて唇を噛み締めた。
すり切れて継ぎ接ぎだらけの粗末な着物しかまとっていない痩せぎすの身体には、真冬の寒さは針が刺すようにも等しく堪えたが、それ以上に心が冷たく絶望に覆われる。
流れる川にふらふらと足を進めたのは無意識だった。
不幸はもう底を打ったと思っていた。燈京行きが決まったことで、人生がやっと上向いてきたと思った。これから先はいいことだけがあるに違いない。そう信じていたのに、何もかも滅茶苦茶だ。
不幸の底には、ぽっかりと穴が開いていた。終わりなどなく、ただ落ちるばかりだ。這い上がることなど望むべきじゃなかったのだろうか。与えられた場所で、与えられた運命を受け入れていれば、妻はもっと長く生きられたのだろうか。
疑問が泡沫のように浮かび上がっては消えていく。どんなにたらればを思ったところで、妻は生き返らない。
草履を履いただけの剥き出しの足が川の水に浸かる。ぎゅっと心臓が痛くなるほどの冷たさに息が止まった。
「はぁっ、は、はあ......」
どっと心臓が息を吹き返したように強く胸を叩き、渉は我に返った。
(いったい、何を......)
一歩、二歩とふらつきながら川から離れる。風が濡れた足を凍らせようとするようにひゅぅ、と吹き抜ける。
ふと、渉は空を見た。空を覆う分厚い雲から、白い物がちらほらと落ちてくる。
「雪......」
どうりで寒いはずだと独りごちたとき、背後で河原の石を踏む音が聞こえた。心配した七瀬がやって来たのだろうと、渉は思った。
「なな──」
振り返っても、我が子の姿はそこになく、あったのは昨日知り合ったばかりの男の顔だ。
寒々しい姿の渉とは反対に、黒い外套をまとい、襟巻きまで巻いている。高額の金を払ってやっと紹介してもらった、燈京行きを斡旋している業者の男だ。男の左頬には、頬骨から口角辺りまで走る、深い刃傷跡が残っていた。
「どーも」
「あんた、なんで」
「なんではないだろ。迎えに来るって言ったじゃないか」
「そ、れは......でも、すみません。今日は、やっぱり行けそうになくて」
ふぅん、と男は目を細めた。いやな予感に足を引けば、川に足が浸かった。冷たいを通り越して痛みさえ感じる。
「嫁さん死んだんだろ? 見たよ。お前んち。美人だったのに、残念だ」
勝手に何を、と思ったが、怒りよりも恐怖が勝った。この男を下手に刺激しない方がいいと、直感が告げている。
渉は視線を動かして七瀬を見る。遠い場所にしゃがみ込む背中があった。集中すると周りが見えなくなる子だ。こちらの異変にはまだ気付いていない。気付くなという思いと、逃げろという思いがせめぎ合う。
「え、ええ......だから、今日は」
言いよどむ渉に、男がにやりと笑った。傷のせいで歪にゆがむ。不気味な笑みだった。
「じゃあ、お前もいきなよ」
「え......?」
男が外套の下から隠し持っていた大きな石を振り上げるのを、渉はまるで悪い夢でも見ているような気持ちで見つめていた。
「──あった」
七瀬は見つけた白い石を顔の前に持ち上げて笑みをこぼした。小さな七瀬の掌には少し余るが、今まで見つけた中でも一番心惹かれる石だった。
これで、きっと母は元気になる。父にも見せようと振り返った時だった。目の前に真っ黒な壁が立ちはだかっていた。裾の長い外套を着た人がすぐ後ろに立っていたと気付いたのは、尻餅をついて見上げたときのことだった。
「やあ。七瀬くんだね?」
「......だれ?」
父と同じくらいか、父よりも少し年下の知らない男だった。頬に痛々しい古傷がある。背は父よりもずっと高く、黒い外套に白い雪が点々と落ちては溶けていく。七瀬は不安に思って男の影から父がいた方を見る。けれど、どこにも父の姿はない。ただ、流れる川があるだけだ。
「......とーちゃん」
七瀬は自分を守るようにぎゅっと石を抱え込む。男はにこりと笑って、七瀬の目の前にしゃがんだ。
「お兄さんはお父さんのお友達だよ」
「......ともだち?」
父の友達は何人か知っているが、こんな男は見たことがない。警戒心も露わに立ち上がろうとした七瀬の肩に男がぽんと手を置いた。
「大丈夫。お父さんはお母さんを迎えに行ったから、俺が君を連れて行くことになったんだ」
「なんで?」
「燈京行きのことは聞いてるかな?」
七瀬はこくんと頷いた。男は笑みを深くする。
「お母さんは病気なんだろう? 気をつけて連れていかないといけないから、君のことは別で連れていってほしいってお父さんに頼まれたんだ」
分かるかい? と聞かれて七瀬は再び小さく頷いた。
「いい子だ」
男は言いながら自分の首に巻いていた襟巻きをほどくと、七瀬の首に巻き付けた。
「可哀想に。寒いだろう」
男の体温が残る襟巻きは、警戒心をほぐすには十分温かかった。ホッと息をついて男を見上げる。
「とーちゃんとかーちゃん、すぐ会える?」
「もちろん。君のことはちゃんと燈京に連れていってあげるよ」
行こう、と手を差し伸べた男の手を、七瀬は眉間にしわを寄せて見つめた。母にあげるはずの石を両手でぎゅっと握りしめる。
「何を持ってるんだい?」
七瀬はおずおずと手を開いた。男は七瀬の白い石を不思議そうに見つめる。
「かーちゃんにあげるの。元気ないから」
「そうかそうか。優しいな」
男は手を取らない七瀬を軽々と抱き上げた。父よりも背が高く、力強く、父のように痩せていない。けれどどうしてだろう。父のように温かいとは感じなかった。
ガラガラと男の足下で音がする。七瀬が音をのぞき込めば、積んであった石が崩れていた。母にあげる石を探している間に無意識に積んでいた石だ。
七瀬は男の肩越しにそれを見つめた。男は大股でぐんぐん進んでいく。あっという間に川に架かる橋を渡った。知っている場所がどんどん遠ざかっていく。七瀬は目をこらして、父の姿を探した。母の姿を探した。
けれど、ふたりの姿はどこにもない。ただしんしんと降る雪だけが七瀬を見送っていた。
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