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24.08.11

結合男子 -Fragments from Dusk-:断章-八- 凍硝七瀬の氷消(5)

著者:麻日珱

前回「断章-八- 凍硝七瀬の氷消(4)」はこちら

 車に乗るのは初めてだった。最初は緊張していたが、いつの間にか眠ってしまっていた七瀬は、軽く揺られて目を覚ます。いつの間にか車から降ろされて運ばれていた。途端に怖くなってむずがれば、七瀬を運んでいた人物が足を止める。

「起きたか」

「──ここどこ」

 声に聞き覚えがあった。父の友人を名乗っていた、頬に傷のある男の声だ。男に抱えられた七瀬は、初めて見る風景にキョロキョロと辺りを見回した。嗅いだことのないにおいがする。みゃあみゃあと鳴いているのは鳥だろうか。川の流れる音とは違う水音が絶え間なく聞こえてくる。

「港だよ。初めてかい?」

 港と聞いても、七瀬にはピンとこなかった。村から出たのはこれが初めてだ。途方もなく大きな水たまりがゆらゆらと波立っている。これが海だ、と男は言った。分厚く掛かった雪雲のせいか海が黒く見えて、七瀬は小さく身震いをした。

「......とーちゃんとかーちゃんは?」

「先に乗ってる。すぐに会えるさ」

 船は見たことがあるかと問われて、七瀬は首を振った。今から乗るのが船だと男は言う。ぷかぷかと海に浮かんでいるのは大きな船だ。七瀬の住んでいる家を数軒合わせてやっと同じになるほどの大きさだった。

 男は七瀬を抱えたまま港と船に架けられた板を渡った。ギシギシと軋む音に、折れてしまうのではと肝が冷える。

 男は船の中に入ると迷うことなく足を進めて階段を下りていく。ムッとする臭いに息を詰めて、七瀬は不安の眼差しを男に向けた。

「ほら、ここだ」

 壁に明かりがぽつりと灯っているだけの薄暗い廊下の向こうに扉があった。そばには太った男がどっしりと椅子に座って控えている。

「そのガキで最後か?」

「ああ。開けてくれ」

 にやりと笑った太った男は、扉に付けられていた錠前に鍵を差し込んで開ける。

「とーちゃんは?」

 頬に傷のある男は、ぞっとするような笑みを浮かべた。

「可哀想にな。お前は親に売られたんだよ」

「っ!」

 目を丸くする七瀬を連れて頬に傷のある男は部屋の中へと入る。小さな悲鳴がいくつも聞こえた。男は七瀬を投げ捨てるように下ろす。受け身すらままならず床に落とされて七瀬はうめいた。

 痛みを堪えながら、七瀬は暗い部屋の中に目をこらした。どうやら、倉庫の中らしい。暗闇に目が慣れてくると、薄闇の中にいくつも人影があるのが分かる。小さな人影だ。子供たちが壁際で身を守るように身を寄せ合って膝を抱えている。

「っ、かえる!」

「おっとー? 帰れるわけないだろ、バカだなぁ」

 七瀬が船倉から出ようとすれば、巻かれたままだった襟巻きが軽く引かれる。七瀬は震えながら男を見上げた。

「言ったろ? 売られたって。ああ、ガキにゃぁ分かんねえか。捨てられたんだよ。帰ったところで、迷惑がられるだけだ」

 ゆっくりと襟巻きの片端が引っ張られる。ずるりと蛇が這うように、七瀬の細い首を絞めながら襟巻きが抜き取られた。襟巻きのなくなった首に、ひやりと冷気がまとわりつく。

 言葉を失って唇をわななかせる七瀬に男は笑った。頬の傷のせいで口元が歪な形に曲がる。

「そうやって口を閉じて、他のヤツらみたいにいい子にしてな。ガキは静かな方がいい」

 男は薄ら笑いを浮かべていたが、その目には一切の温度がない。ブルブルと震える七瀬に満足げに笑みを深め、男は部屋を出て行った。

「......」

 七瀬には何も分からなかった。どうしてこんな場所にいるのかも、男の言葉の意味も。分かりたくもなかった。ただ、怖くて怖くて身体の震えが止まらない。

「......っ」

 こぼれそうになった悲鳴を必死に両手で塞いだ。何も分からないけれど、これはダメだと分かった。声の代わりに、ボロボロと涙がこぼれて両手を濡らした。

 コツンと何かが床で跳ねる。白い石が落ちていた。

「あ......」

 急いで拾い上げて胸に抱く。

(かーちゃん......)

 石を持って帰らなくちゃ。

 両親が家で待っている。

 きっと、きっと──。



 七瀬は希望を胸に抱きながら、船倉の隅に小さくなって膝を抱えていた。子供たちの啜り泣く声に、七瀬自身も泣きたくなる。だが、声を出そうとするたびに、首を絞めるようにぞろりと這っていく襟巻きの感覚が思い出されて唇を噛んだ。

 七瀬の体感的には、船が動いていたのは二日もなかったように思う。まず、少女たちが船を下ろされた。泣き叫ぶ声は悲痛で、七瀬は目を閉じ、耳を塞いでいた。

 そこから船が動いた気配はない。十人もいない少年たちはそれぞれに息を潜めている。ほとんどが七瀬よりも年上の少年たちだった。

 時間が経つほどに精神は摩耗し、心が麻痺し始める。水とパンは与えられたが、到底足りるものではなく、身体の小さい七瀬の分はわずかな分を残して他の子供に取られた。空腹のせいでまともに考えることもできない。七瀬はほとんどの時間を壁にもたれて目を閉じて過ごす。夢もうつつも曖昧だ。

 少女たちが連れて行かれて三日ほどが経った頃だろうか。船底の倉庫にドカドカと乱暴な足音が近づいてくる。七瀬は薄く目を開けた。

「──ガキども、出てこい」

 顔に傷のある男だ。誰も動こうとしない少年たちにひとつ舌打ちをする。

「出てこいっつってんだろ」

「ど、どこに連れて行くの?」

 一番背の高い少年が震える声で言った。皆の間に緊張が走る。前に口答えをした少女は乱暴に引きずられていった。それを皆が覚えていた。

「お前ら、運がよかったな? 売るのはまだ先になりそうだぜ」

「お、おうちに、帰してくれるの?」

 他の少年が問う。帰して、帰りたいと啜り泣く声があちこちから上がった。

「はっ。馬鹿が。感謝しろよ。お前らの故郷は時期デッドマターに飲まれる。俺たちは、可哀想なガキを助けに来てやったんだぜ?」

 男はぐるりと子供たちを見回して、フン、と鼻を鳴らした。

「いつもなら適当な孤児院にぶち込んでから買い手を見つけるが、今回は労働施設で働いてもらう。テメェの食い扶持はテメェで稼ぎな」

 早く出ろ、と大声で恫喝される。七瀬は力を振り絞って立ち上がり、他の少年たちと共にビクビクと震えながら部屋を出た。

 外は夜だった。海は黒く波打っていて、夜との境目も分からない。下りると、地面が揺れているかのような錯覚によろける。

 数人に囲まれて小さく固まった子供たちは、おどおどと周りを見回した。ぴゅぅ、と冷たい海風が吹き、刺すように身体に凍みる。

 七瀬は目を凝らした。ずっと暗い場所にいたから、星明かりでも夜目が利く。七瀬は夜の闇の中にどっしりと構えた大きな影を見た。小さな村の中で育ってきた七瀬には、それが背の高い建物であるとは分からなかったけれど。

「おら、来い」

 ぐいっと両手に掛けられた縄を引かれ、子供たちはつんのめりながらも歩く。

 船から下りた子供たちは、すぐに大きな車に乗せられた。しばらく揺られて連れていかれたた先は、どこかの大きな施設のようだった。周りはぐるりと高い塀で囲まれている。

 顔に傷のある男は子供たちを降ろすと、誰かを待つように佇みながらタバコを吹かした。

「おお、来たか」

 中肉中背の中年男がのそのそと建物から出てくる。頬に傷のある男はくわえタバコで片頬を上げた。

「よう。こいつらしばらく預かってくれや。どれだけ働かせてもいいからよ。死なせねぇ程度に頼むわ」

「話には聞いていたが......まだ子供じゃないか。使えんよ」

「そう長くは掛かんねえよ。検査が終わったら適当に売り飛ばすつもりだから」

「検査?」

 中年男は怪訝そうに子供たちを見た。

「あっちでは病気でも流行ってるのか? そんな子供を連れてきたなんて......」

「ちげぇよ。適性検査を受けさせる」

「──志献官の、か?」

 どうして、と中年男は顔に傷のある男に目で問うた。

「聞いたことねぇ? 青髯の旦那が、因子持ちのガキ探してるって話」

「あるにはあるが......因子を持ってる人間などそう簡単には見つからんだろ?」

「見つけたら儲けモンだろ?」

 くく、と顔に傷のある男は笑ってタバコの灰をトントンと落とす。中年男はやれやれと言わんばかりに額に手を当てた。

「しかし......青髯さんは何を考えているんだ? 適性検査なんて、防衛本部に登録された人間を誘拐すれば目を付けられるだろうに」

「自分とこで検査するらしいからそれはねえな」

「できるのか?」

 目を丸くする中年男に、顔に傷のある男はクッと口角を上げた。

「誰かに出来たことなら、他の誰かも出来る。そんだけの話だろ?」

「そうかもしれんが......青髯さんは何のために因子を持っている人間を集めてるんだ?」

「私兵の志献官を作りたいらしいぜ? バケモノ集団」

 顔に傷のある男の言葉に中年男は呆れたようにため息をついた。

「はあ......何を考えているのやら......」

 首を振る中年男の目が子供たちの方へと向けられる。

「この中に、金の卵がいると?」

「さぁてね。いなけりゃ全部くれてやるよ。好きにしろ」

「......ふん。いいだろう。だが、子供だからと言って仕事を軽くしてやるつもりはないぞ」

「丁重に扱えよ? 大事な商品だ」

 頼んだぜ、と顔に傷のある男はひらりと手を振って離れていく。子供たちは、知らぬ場所に置いていかれることを恐れて顔に傷のある男を追いかけようとした。しかし、子供たちの両手を縛る縄は中年男の手に渡っている。ぐいっと強く引かれれば、子供たちはよろけて膝をついた。

「どこに行こうとしている。ここから逃げられると思うなよ」

 顔に傷のある男を乗せた車が走り去っていく。それを呆然と見送る間もなく、強く縄を引かれた子供たちは中年男に引きずられていった。

 次に顔に傷のある男が現れたのは、それから半年以上が経った秋のことだった。

「ガキどもはそっちに全部売る。金を寄越しな」

 短い食事休憩の最中、顔に傷のある男が苛立ちながら中年男──労働施設の所長に迫る声が聞こえてくる。七瀬は小さく肩をすくめた。交渉が難航しているのか、互いの怒鳴り声が響き渡った。どうやら、何かあって青髯の行方が分からなくなったらしい。

 それが何を意味するのか七瀬には分からなかった。どうでもよかった。

 どうせ、誰も助けてくれない。

 最初の頃、収容された子供たちは皆、きっと助けが来てくれると信じていたが、今では誰もそんなことを口にしない。

 いつだったか、古株の労働者が濁った目でぽつりと呟いていた。希望を持つだけ無駄だと。男の疲れ切った言葉が七瀬の中に深く突き立ち、それが事実だと身につまされる度、抗う気持ちも、希望を持つ心も消え失せていく。

 不意に、バン、とけたたましい音を立てて所長室の扉が開いた。

「チッ。足下見やがって」

 顔に傷のある男が毒づきながら出ていった。彼は、労働者たちの視線を感じたのか、クワッと目を見開いた。

「何見てんだ、ぶっ殺すぞ!」

 近くにいた大人の労働者を蹴りつけて去って行く。七瀬は呻く大人を横目に見ながら、何の料理かも分からないドロドロとした味のしない食べ物を指で掬った。箸や匙などというものはここにはない。以前、箸や匙で監督官を襲った労働者がいたせいで、与えられなくなったのだそうだ。

 七瀬はべたつく指先を舐めてから着物にこすりつけた。一日に二度の食事は、満腹になるにはほど遠い。皿に残る一滴さえも惜しくて舐め取る。

「休みは終わりだ! 早く仕事に戻れ!」

 監督官が叫び声を上げる。ぞろぞろといなくなる労働者たちを尻目に、七瀬は彼らが置いていった皿を集めて回った。今日は七瀬と、もうひとりの青年が片付ける当番なのだ。

 何往復もして外にある水場へ運び、水を張ったたらいに浮かべてはたわしでこする。

 この施設の中でも皿洗い当番は楽な方の仕事だ。まだ夏が終わったばかりだから、水も凍えるほどは冷たくない。皿は金属でできているから落としたところで割れないし、壊れなければ叱られることもない。叱られなければ殴られないし、殴られなければ夜は痛みに苦しむことなく眠ることができる。

 大量の皿を洗い続け、それを片付けるところまで終えた頃には仕事の終わりの時間だった。

 それにホッと息をつく。

 やっと今日が終わる。雑魚寝状態の寝床には布団なんて上等な物は敷かれていない。七瀬は部屋の隅の、身体を休めるには固い寝床の上で小さく丸くなり、隠し持っていた小さな石を握りしめて目を閉じた。



 新和十八年十二月──。

 七瀬は小さく身体を丸めて膝を抱えていた。寒空を見上げて息を吐けば、夜空に白く息が溶けていく。

 ずっと、ずっと寒かった。

 季節が何度移ろっても、ずっと、心が寒い。

 この労働施設に入れられて、もう二年近くが経とうとしている。

 最初の頃は悲しかった。どうして捨てられたんだろうと考えても分からなくて、もしかしたら迎えに来てくれるかもしれないと希望に縋った。

 けれど、希望などなかった。悲しみは諦めに変わり、幸せだった頃の記憶はただ七瀬を苦しめるだけのものになっていた。

 毎日が怖くて、毎日が苦しくて、七瀬は考えることをやめた。覚えていることをやめた。

 父のぬくもりも、母の優しさも、思い出してしまえば胸をかきむしるほどにつらかったから。狂ってしまいそうなほど悲しかったから。

 何も想わないことにした。優しい思い出は記憶の奥底に押し込めて、つらいことも悲しいことも、心に入れないようにして。ただ目の前に与えられたことを淡々とこなす。そんな七瀬を見て、誰かが人形のようだと嘲笑った。

 心の奥底に押し込めた記憶はいつしか、思い出そうとしても思い出せないものになっていった。

 七瀬は夜が恋しかった。眠ることは許されたから。朝なんか来なければいいと思った。眠ったまま目覚めなければいいと祈った。どうしてここにあるのかも忘れた白い石だけが、七瀬のよすがだった。

 心を凍らせて、ただ時間に流されていく毎日だ。

 その日は珍しく失敗をして外に出されていた日だった。食事を抜かれ、屋内で眠ることも許されず、すり切れて垢じみた着物ごと自分をかき抱きながら、ガタガタと震えて夜空を眺めていた。温もりを分けあった野良猫も、今日はどこかで暖を取っているのだろう。

 七瀬はひとりぼっちだった。

 カチカチと歯が鳴る音を聞いていると、脳裏に何かがちらついた。それが、遠い日の記憶であることは分かっていたが、七瀬は追わなかった。追わなければ、その記憶はもう二度と浮かんでくることはない。

 ただ、眠れぬ夜に空の星を数えていた。

 数え切れないほどの星を、十までしか数を知らない七瀬は何度も何度も数えて、数えて──。

 夜空にひらめく赤い光の帯を目にしたとき、七瀬はまるで自らが流れる星になったかのように走り出した。

 ただ、あの赤い光の方へと一心不乱に。何が自分をそこまで駆り立てたのかは分からない。

 捕まればきっと、酷い目に遭うだろう。命を落とすかもしれない。使えない奴隷の命など、紙よりも軽いのだから。

 捕まらなくたって、野垂れ死ぬに違いない。

 けれど、もういい。最後にあの赤い光がなんなのか、それを見届けたなら、もういい。

 あれが奇跡でないのなら、生きていたって仕方ない。

 冷たい空気に喉が痛んだ。肺の中まで凍りそうだった。痩せ細った小さな身体はいくらも走らないうちに悲鳴を上げている。

 それでも走って、走って、赤い光を追いかけて、そうして──七瀬は、温もりを手に入れた。


(終わり)

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